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妻有地方の先史時代.jpg

 縄文研究の第一人者・小林達雄名誉教授(國學院大)と共に妻有地域の縄文研究に取り組む佐藤雅一氏(日本考古学協会会員)の妻有地域30年間の研究活動の一端を9回に渡ってリポートする。

 【はじめに】

 妻有地方の文化的黎明は、その基礎的な研究は佐野良吉・石沢寅二によって進められ昭和33(1958)年に新潟県教育委員会が妻有地方を対象に実施した総合調査で、その全体像が初めて体系化された。執筆は中央考古学界で活躍していた中川成夫・芹沢長介に地元の石沢寅二が加わった。あれから65年の歳月が流れ、十日町市史・津南町史・川西町史・中里村史など自治体史の編纂事業によって、さらなる資料が追加され、妻有地方の文化的黎明期の関係性についても、その一部が垣間見え始めた。

 その後、開発行為に伴う発掘調査の実施と、その成果を踏まえたシンポジウムの開催を重ねたことで先史時代(旧石器時代・縄文時代・弥生時代)の実態がより鮮明になりつつある。

第1回

第1回

縄文1万年余、草創期と早期が50%以上

 北緯37度が走る妻有地方は、湿潤の重い雪が降る多雪地帯として知られる。しかし、この多雪環境は約8000年前の縄文時代早期に対馬暖流が日本海に流れ込むことで成立したと考えられている。暖かい海流から大量の水蒸気が発生することで多雪化現象が生じたということのようだ。

 すなわち、約8000年前を境界に乾燥した寒冷な冬季と湿潤の多雪環境が形成した冬季に分かれる。さらに火山活動など多様な要因で気候が変化する中で自然環境も静かに変遷したことが、湿地の花粉化石調査などで判明しつつある。

 旧石器時代は、まさに氷河時代にあった。当時の妻有地方を流れる信濃川は、もう少し標高の高い位置に河川氾濫原を広げながら蛇行を繰り返していた。縄文時代に入ると地球環境は世界的に温暖化に向かうが、草創期の終わり頃にヤンガードリアス期と呼ばれる寒の戻りが世界規模で生じ、人類活動に影響を与える。しかし、気候は回復し、少なくとも早期初頭にあたる1万年前後から確実に温暖化が安定した。温暖化は縄文時代前期中頃にピークを迎え、徐々に冷涼化するが、火焔型土器の時代である中期中頃には現在とほぼ同じ気候環境になった。その後、後期に向かい冷涼化が進行し、弥生時代には現在よりもやや寒冷な気候が生じていたと考えられる。

 ここに縄文時代の遺跡増減グラフを提示した。草創期には稀薄な活動が認められるが、草創期5・6期、まさにヤンガードリアス期に皆無に近い状態になる。早期3期から活動が活発化し、前期中頃に向けて活動が活発化する様子を読み取ることができる。中期から後期に掛けては前期の2倍以上の遺跡が残される。その過渡期である中期5・6期に減少傾向はあるが、それなりの数の遺跡が活動している。中期では2〜4期に、後期は2期に増加ピークがありその後は減少。特に後期5期以降、晩期全般において低調な活動が認められ、中期に比べると激減したと指摘できる。

 但し、このデータにはやや数字のマジックがある。縄文時代を草創期〜晩期まで6時期に区分して研究しているが、その各時期の継続時期が同じ(等質)ではなく、異なる(非等質)ことが、近年の精緻な年代測定成果で判明してきた。

 1万年以上の時間を持つ縄文時代の50%以上を草創期と早期が占め、前期以降晩期まで短い時間幅で変化することが理解できる。おおよそ、中期から晩期の変化速度は同じで、先ほど示した中期から晩期の遺跡増減は、データを素直に読み解き、その環境変化と社会的背景を探る手掛かりになる。

第2回

最古の狩猟民

第3図 正面ヶ原D遺跡sn.jpg
第4図 上原E遺跡sn.jpg

 ここで取り上げる時代は、土器を持たない旧石器時代で約1万6千年以前の歴史である。これまでの土壌に含まれる花粉化石の研究から寒冷な氷河時代にあり、尾瀬ヶ原に近い環境が妻有地方に広がっていた。そのような環境下でも苗場山麓に石器石材と獲物を目的に旧石器人が移動してきていたことが発掘調査で明らかになってきた。

 では、妻有地方最古の人類の足跡はどこにあるかといえば、津南町の正面段丘面に立地する「正面ヶ原D遺跡」。約3万年前の活動痕跡がある。細長い石を剥離し、一部を尖らせる原初的な石槍と刃先を磨いた石斧を装備している。妻有地方最古の歴史は、新潟県最古の歴史でもある(写真上)。この旧石器時代の歴史は、石槍の形態変化を軸に理解することができる。  

 約1万8千年前になると細長い石は、やや小形化し、その先端部と基部に加工を施し尖らせるようになる。刃先を磨いた石斧は見当たらなくなるが、新しく彫刻刀に類似する特徴的な刃部を形成する「彫器」と呼ぶ石器が加わる。その石器群は特徴的で「杉久保石器群」と呼ばれている。

 この杉久保石器群の標識遺跡が、津南町の「神山遺跡」。この遺跡の近傍で発見された「下モ原Ⅰ遺跡」と「居尻A遺跡」も杉久保石器群の遺跡であり、共に出土した石器が接合するという驚異的な成果が生まれている。

 石器は石を剥離してつくることから、その剥離面同士が接合する可能性がある。その原理を使い、2つの遺跡から出土した剥離石器の接合関係を検証した結果、段丘面の異なる遺跡(遺跡間600メートル、高低差40メートル)で石器が接合した。この成果は世界的に評価され、旧石器時代の移動生活の実態に迫る重要な成果を積み上げた。

この杉久保石器群の広がりは、野尻湖︱津南段丘︱下田段丘を括る約100キロ圏内に偏在的に発見されることで、その広がりが回遊的移動範囲であった可能性が指摘されている。

 ナイフ的な石槍は、身の厚い素材加工によって誰が見ても石槍とわかる形態に変化する。その時代は約1万7千年前の出来事だ。その典型的な石器群が津南町の「道下遺跡」で発見された。全面を加工する技術が獲得され、その加工手順を追うことのできる工房跡が明らかになった。

 さらに、約1万6千年前になると石槍を持つグループに特異な石器を保有するグループが遭遇する事態が生まれる。その特異な石器が、刃を入れ替えするカートリッジ式の刃部を持つものでシベリア—アラスカに分布域を持つ細石刃石器群。骨の柄に細長い溝を彫り、その溝に長さ30ミリ、幅7ミリ前後の細長い石を埋め込む「投槍器」と呼ばれる槍を保有する集団が現れる。

 これらの石器群には、数多くの彫器が組成される。その典型的な遺跡が津南町の「正面中島遺跡」。また、正面中島遺跡の細石刃に近似しながらも組成する石器や石材が異なる遺跡が津南町の「上原E遺跡」(写真下)。大量の黒曜石を使用する特徴があり、驚くことにその一部が北海道の白滝産であることが分析で明らかになった。

 この特異な石器群には、大型石槍や掻器、彫器に刃部磨製石斧が伴う。すでに1万6千年代は、世界最古の土器出現期であり、土器は検出されなかったが、旧石器時代から縄文時代の過渡期であることは間違いない。

 このように妻有地方に位置する苗場山麓段丘地帯では、厚いローム層の中で包含層位を違えて多種多様な石器群が発見される。中には、約2万5千年前に無斑晶ガラス質安山岩を求めていた瀬戸内系狩猟民が長野県境に流れる志久見川に至る。彼らは河原から人頭大の無斑晶ガラス質安山岩を拾いあげ、津南町の「加用中条A遺跡」で石器工房を展開する。そこでは北陸︱東北地方で見ることのできない横長の剥離技術による石器群がつくられた。この石器群に類似する遺跡が、近年津南段丘で複数発見され、その北端が三条市「御淵上遺跡」であることが知られている。

 もう一つ、約2万3千年前に黒曜石を多く持ち込み有樋尖頭器と呼ぶ特異な石槍が多数出土した遺跡が、志久見川右岸の「しぐね遺跡」。この遺跡は、北関東の石器群に類似し、長野県和田峠遺跡群の中に酷似する遺跡があることが判明している。

 このように、地方文化を保有する旧石器時代の狩猟民が、回帰的移動範囲の一部を重ねながら集団維持のための婚姻関係と石器石材を探りながら交流していたシナリオが浮かびあがる。約1万6千年前〜1万4千年前の2千年間は、大きな文化画期だ。すなわち、自然界の粘土に混和材を入れ生地をつくり、造形して焼成することで「土器」が生まれる。この土器つくりが常態化することにより、回帰的移動生活様式から定住生活様式へ、シフトチェンジする用意が始まる訳である。

第5図 干溝遺跡(撮影:小川忠博)sn.jpg
第6図 卯ノ木南遺跡 押圧縄文土器 (撮影:)小川忠博sn.jpg

第3回

縄文文化の胎動

 縄文時代の開幕は、土器の使用だ。この縄文時代は旧石器時代に次いで長く、約1万2千年は確実にあったと考えられる。この長い縄文時代は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6時期に区分して、その文化変動を研究している。

 これら6時期は、同じ時間幅を持つものではなく、非等質の時間で構成されていることが土器に付着していた炭化物の精緻な科学的年代測定で明らかになっている。新潟県全体では、草創期・早期の遺跡は皆無に近い状態にあるが、発見された当該期の遺跡は、津南町と旧中里村に偏在している特徴がある。

 草創期は、縄文文化胎動の時期であり、縄文時代の約31%の時間を保有する。隆起線文土器→押圧縄文土器→回転縄文土器へと変化することが予測されている。

 隆起線文土器以前の土器には、津南町の寺田上A遺跡の「斜格子沈線文土器」があるが、異論も多く市民権を得ていない。概説書的に触れるならば、旧中里村壬遺跡には、As—K(浅間草津)火山灰の下層から無文土器が出土しており、隆起線文土器以前の土器として周知されている。すなわち、日本最古級の土器発見地だと評価される。隆起線文土器も壬遺跡あるいは近接する田沢遺跡の形態的特徴が古相を示している。

 次に旧中里村の久保寺南遺跡や干溝遺跡(写真上)、津南町の屋敷田Ⅲ遺跡や北林C遺跡などを挙げることができる。すなわち、縄文文化発祥の地こそが妻有地方の苗場山麓であるといえるのである。

 押圧縄文土器の段階では、津南町本ノ木遺跡・卯ノ木遺跡・卯ノ木南遺跡(写真下)、旧中里村の小丸山遺跡・おざか清水遺跡・中田D遺跡などがあり、定型的な流儀を示す土器群がまとまりをもって分布している。さらに、回転縄文土器の段階になると遺跡数が激減する事態になる。その頃はヤンガードリアス期と呼ばれている寒冷期にあたり、それが原因と推測される。

 そのような中にあって稀薄な活動が津南町の堰下遺跡で認められ、阿賀町室谷洞窟遺跡を標識とする室谷下層式土器の仲間が出土した。また、魚沼市黒姫洞窟遺跡にも同様の類似土器が出土しており、面としての活動は認められないが小さな点としての活動痕跡を丹念に結ぶ作業が続けられている。

第4回

本格的な縄文文化の開始

第7図 干溝遺跡住居跡sn.jpg
第8図 芦ヶ崎西平遺跡sn.jpg

 早期はヤンガードリアス期を越えて温暖期の入り口にあたる。関東平野では、数多くの集落が営まれ、貝塚が形成され、その研究からは外洋へ漕ぎ出してマグロを捕獲していた人々がいたことが分かっている。さらに草創期の土器量の約10倍以上の土器製作が行われていることから、本格的な縄文文化の始まりとの評価もある。

 早期は撚糸文土器→押型文土器→沈線文土器→条痕文土器→絡条体圧痕文土器へと5段階に変化。土器の形は、底が尖る尖底土器を主体にしながらも、条痕文土器段階から平底化の傾向が認められ、早期末の絡条体圧痕文土器段階で平底に変化する。

 撚糸文土器の遺跡は少なく、旧中里村の干溝遺跡と津南町の大原遺跡が代表格。住居跡が検出されているのは干溝遺跡だけであり、それらが複数で集落を形成していることが判明している。すなわち新潟県最古の集落遺跡が干溝遺跡だ(写真上)。

 次に展開する押型文土器は、西日本から中部日本を中心に展開する土器群であり、その北端部に妻有地方が位置付けされる。押型文土器の出土範囲はやや広くなり、新しい十日町市域にも散在するようになるが、やはり津南町と旧中里村に偏在性を認めざるを得ない。

 津南町の卯ノ木遺跡は、「卯ノ木式土器」の標識遺跡であり、その周囲に特異な押型文土器が分布する。施文原体は、木質あるいは骨質と推測されるが検出事例がないので不詳。実験で文様の二条菱目文を木質で復元すると、その施文原体製作技術の高さとその伝習性を考えてしまう。

 その分布は、津南町—野尻湖に偏在するものの、魚沼市黒姫洞窟遺跡や福島県塩喰岩陰遺跡、岐阜県宮ノ下遺跡に飛び石的に発見され、伝習性を背景に興味深い事実だ。

 沈線文土器は、東北地方を基盤とする土器群であり、動きとすれば北から南へ移動し、押型文土器文化後半期に入り込み定着し、西日本の押型文土器末期には妻有地方では、確実に沈線文土器群に入れ替わっていることが判明している。

 その沈線文にはサルボウ貝などの放射筋縁を器面に押し当てギザギザ文様を付ける特徴があり「貝殻腹縁文土器」とも呼ぶ。十日町市の通り山遺跡を主体に旧中里村穴川遺跡や津南町正面ヶ原B遺跡・丸山D遺跡・別当A遺跡などに分布し、湯沢町岩原Ⅰ遺跡や長岡市西倉遺跡、三条市長野遺跡などでより北方への分布域が認められる。

 条痕文土器は、早期末まで継続する土器群であり、その終末段階に絡条体圧痕文土器が津南段丘近傍に偏在する特徴がある。

 これら条痕文土器群のうち古相の土器の実態は不詳。しかし、「鵜ヶ島台式土器」と呼ぶ関東系土器が明瞭な形で苗場山麓に入り込んでいる。三国峠を経由し、湯沢町龍岩窟遺跡や津南町正面ヶ原D遺跡、旧中里村の干溝遺跡で確認することができる。また、茅山下層式土器が津南町芦ヶ崎西平遺跡の第1号住居跡の床面から潰れた状態で取り上げられ復元されている(写真下)。

 新相の絡条体圧痕文土器は、長野県北部から苗場山麓界隈に分布域を持ち、津南段丘では数多くの遺跡が確認されている。その急増現象の背景は不明であり、その状況は長野県とは異なり特筆される。 

 津南町の屋敷田Ⅰ遺跡や堂尻遺跡は古くから注目され、その後に飛沢B遺跡・丸山遺跡・涌井池遺跡・貝坂桐ノ木平C遺跡など多くの資料が資料報告されている。また、旧中里村干溝遺跡からは、縄文を胴部下半に転がす絡条体圧痕文土器が復元されており、専門的には早期と前期を結ぶ貴重な資料であり、その評価について確定していない状況にある。

 個々で触れた早期という時代は、縄文時代の約34%を占める時間軸を持つ。その前半期、おおよそ押型文土器前半期の約8000年前に対馬暖流が日本海に流れ込むようになり、冬季の水蒸気量が増大したことで乾燥した冬季から湿潤で重い雪が降る多雪環境が生まれたと考えられている。すなわち、雪国文化の原点がここにあるといえる。

第5回

本格的な雪国文化の基層が動く

第9図 諏訪前東A遺跡sn.jpg
第10図 岩原Ⅱ遺跡sn.jpg

 前期という時期は、火焔型土器文化が発展するための準備段階の時期であり、ようやくその実態がベールを脱ぎ出した研究段階にある。土器群は、花積下層式土器群→関山式土器→有尾式土器群→諸磯b式土器→諸磯c式土器を含む終末土器群に変化する。

 花積下層式土器は、津南町の神山A遺跡や寺田上A遺跡、旧中里村干溝遺跡や鷹ノ巣遺跡などで検出されているが、明瞭な住居跡の検出はない。次の関山式土器については不詳だが、南魚沼市五丁歩遺跡に1軒の方形住居跡と稀薄な土器群が検出されている程度だ。

 有尾式段階の集落遺跡が津南町で新発見されている。大割野段丘面に立地する諏訪前東A遺跡(写真上)。思いもよらない発見だったが、発掘調査範囲に広く長方形あるいは方形の平面形態を示す竪穴住居跡が数多く検出され、当該期の土器群も復元され、その実態がようやく見えてきた。

 石器群では多くの石匙を保有し、磨製石斧は非蛇紋岩製で定角式磨製石斧でない特徴がある。意外と磨石と石皿が少ない傾向が注目される。

 有尾式土器群ではあり、半截工具を巧みに操る文様手法を持ち、器面を黒く研磨する土器が一部含まれる。これら土器群は、諏訪前東A遺跡以外に県境に近い中子原に立地する洗峰遺跡群や、旧中里村の干溝遺跡でも住居跡を保有して復元土器が検出されている。諏訪前東A遺跡の集落構造は、全体の一部でしかないが、その形態から越冬を含めた定住的な集落の萌芽と評価される。それを前史として諸磯b式土器の分布が魚沼地方全体に認められる。

 諸磯b式土器は、北関東の土器群であり、三国峠を越えて入り込んだパイオニア集団だといえる。すなわち、新潟県の海岸部ならびに内陸平野部の阿賀野川以南には、縄文施文土器を主体とした刈羽式土器が分布する。海辺の民と山辺の民の対峙構図が見え隠れする。

 この諸磯b式土器の深鉢形土器には、イノシシ塑像(写真下)が貼付される特異な土器があり、イノシシの飼育問題が取りざたされる土器文化である。また、明瞭に耳たぶに蛇紋岩製の「抉状耳飾り」を装着する風習を持つ集団であったことが知られている。

 しかしながら、その遺跡が分布していることは知られているが、集落遺跡の発掘調査はなく、その実態は不詳。その一端を、湯沢町岩原Ⅲ遺跡や南魚沼市吉峰遺跡、旧中里村干溝遺跡で垣間見ている程度だ。初期栽培や野生動物飼育問題など重要な課題を含む時期であり、今後の研究に期待が向けられる。

 諸磯c式土器の集落遺跡は、古くから知られている。それが十日町市の赤羽根遺跡だが、その詳細の公開が進められていないことから不明な部分が多くあり残念だ。把握している情報では、緩い傾斜地に竪穴住居跡が複数検出されており、復元可能な土器群が数多く出土しているということだ。 

 前期末の土器文化や集落構成などを探るにはなくてはならない遺跡情報だ。

 土器の散発的な出土は、津南町下モ原C遺跡や旧中里の干溝遺跡などに見られるが、やはり実態は不詳。諸磯c式土器よりやや新相の土器群が、県境に近い中子原の洗峰E遺跡や龍ヶ窪近傍の立石遺跡、さらに信濃川縁辺に立地する反里遺跡、大割野段丘面に立地する諏訪前北遺跡群などに少量ながら分布する実態が知られている。その中では、洗峰E遺跡と立石遺跡、道下遺跡では住居跡と共に出土遺物の検出が行われており、中期社会への過渡期としての研究素材を提供している。

 これら前期社会は、世界的に「リトリナⅡ」と呼ばれる温暖期に当たり、「縄文海進」と呼ばれる海水面上昇期である。土器型式で考えるならば諸磯式以前の関山式〜有尾式土器群がつくられる時期に当たる。群馬県南部の藤岡まで汽水域が広がっていたと考えられている。それ以降、やや冷涼化が進行する中で前期末を越えて中期社会に入り込む訳だ。

 この前期末は、関東地方に分布していた十三菩提式土器と呼ばれる土器群が日本海沿岸を北上しながら大規模な長方形住居を構築しているとも解釈する研究者がいる。その真偽や社会構造の変質を探るためにも赤羽根遺跡の実態を最新の学術成果を踏まえて位置付け、公開されることを強く希望する。

第6回

火焔のクニ

第11図 堂平火焔-横sn.jpg
第12図 沖ノ原遺跡第1号住居跡炉跡sn.jpg

 漸く火焔型土器がつくられた中期に入り込む。約4000〜5500年前の時間幅だ。この中期は、前葉期の千石原式から火焔型土器が遡源し、隆盛し、終焉する中葉期と新しい在地土器の胎動・展開する後葉期に分かれる。この変化は、十日町市の笹山遺跡を代表格に旧中里村の森上遺跡、津南町の沖ノ原遺跡・道尻手遺跡・堂平遺跡など数多くの発掘調査で、その実態に迫りつつある。

 前葉期に入る初頭については、前期末葉との絡みがあり、その実態は定かではない。しかし、前葉期の遺跡ということになると津南町の城林遺跡や南原遺跡で、その実態が見え隠れしているが、竪穴住居跡の検出例は少ないままであり、床面に石囲い炉は構築されず、地床炉の形態を保有すること程度は明らかだ。

 津南町の上野遺跡や北林C遺跡で「中空土偶」の資料が検出され、北信エリアに腹部を空洞化させる中空土偶を製作する文化的背景があったことが知られている。また、北林C遺跡では、これら在地系土偶に伴い関東に分布する五領ヶ台系土偶が共伴することが知られており、この段階で複数系列の土偶を保有する祭祀形態が確立していた可能性がある。

 中葉期は以前、火焔型土器(写真上)を製作する馬高式土器の時代と理解してきた。しかし、近年の研究蓄積で火焔型土器の生成から消失現象を捉え、五丁歩式土器→馬高式土器→栃倉式土器へと変遷し、馬高式期に舟形から長方形の石囲い炉が構築され、それが床主軸の中央部に位置することが整理された。

 火焔型土器の形成する胎動期が五丁歩式期にあり、その生成・隆盛が馬高式期にあり、栃倉式期になると火焔型土器は姿を消すと考えられている。火焔型土器は、集団のシンボルであり、その分布域は広く、中越地方を中心に下越地方に広がりを持ち、佐ヶ島や粟島にも認められる。

 上越地方の北側は、この「火焔のクニ」であるようでだが、糸魚川市界隈は「火焔のクニ」の外縁部に当たり、富山県に分布する上山田・天神山土器のクニに当たるようだ。信濃川ー千曲川流域で見るならば、その南西端部が長野県栄村界隈であり、その上流部の飯山盆地は異なる集団領域のようだ。

 この「火焔のクニ」では、多様な土偶や浅鉢を保有し、祖先霊にまつわる儀礼祭祀が存在し、拠点集落は広場(墓域)|居住域|貯蔵域が円環状に配置される環状集落を構築している。

 すなわち、縄文モデル村だ。この時期は、ほぼ現在と同じ気候環境で、湿潤の重い雪が降る多雪環境下にある。そのため越冬が問題。しかし、遺物や遺構の研究から、夏は海辺まで移動していた可能性がある。越冬は北風の弱い内陸盆地に越冬用拠点集落を形成していた可能性が高い。そして、それらが笹山遺跡や道尻手遺跡などの集落遺跡だと考えられる。

 興味深いことは、儀礼土器と考えられる火焔型土器の終焉に変わり、筒状であった胴部が湾曲し頸部が屈曲するスタイルの変化に伴い、空洞突起を保有する土器(前野類型土器)が出現する。

 これは短命な儀礼土器であり、その分布域は火焔型土器よりも狭いといえる。果たしてこれらの土器分布が、どのような社会的背景で生じたのか考える必要がある。

 さらに、後葉期になると派手な渦巻き文様を持つ五丁歩式・馬高式・栃倉式の土器文様構造に変革が生じ、やや暗い質素な土器群に変化し、その特徴から「沖ノ原式土器」と呼ばれている。

 沖ノ原式土器が形成されると住居形態にも変化が生じる。床の主軸中央部にあった石囲い炉が入り口部にやや移動し、その形態が「A」の字に近い「複式炉」と呼ぶ形態に変化する(写真下)。

 この形態の炉は、東北南部中心に分布するものであり、新潟県域にも広がるが、阿賀野川以北の形態と比較してもやや異なり「魚沼型」と認識できるような地方化が認められる。栃倉式からの変化を追うことはできるが、東北の大木式土器や関東の加曽利式土器が入り込み、その影響を受けた折衷土器が組成する。

同じ中期社会であるが、火焔型土器を中心とする中葉期は、花開いた在地文化の時期と形容でき、この後葉期は外部との交流が強くあったと考えられる。

 在地土器である沖ノ原式土器の基本的分布は極めて狭く、栄村|津南町から魚沼地方程度の広がりしかなく、阿賀野川以北では全く異なる土器相が展開する。この傾向は、実は栃倉式期から阿賀野川以北で認められる傾向。また、複式炉は後期に移る中で小形化し、形態が変化することも事実として把握されている。

 中期終末から後期初頭に向けて気候が冷涼化することが知られている。遺跡の数が減少する傾向は間違いなくあるが、中期末葉は他地域に比べると減少率が弱いと考えられている。この点については、より詳細な分析が必要だ。

第7回

複雑な社会組織の形成

第13図 上野スサキ遺跡出土の三十稲場式土器(撮影:小川忠博)sn.jpg
第14図 野首遺跡の配石sn.jpg

 後期の始まりは、関東地方に分布する称名寺式土器を基準に広域的な時間軸の整備が図られてくる。妻有地方の考古資料の充実で、漸く細かな時間軸での関東地方との対比が可能になったといえる。

 称名寺式土器はⅠa式→Ⅰb式→Ⅰc式→Ⅱ式へと変遷すると考えられており、現在はⅠa式期とⅠb式期の時間幅の土器相について詳しく整理されていない。一部の研究者は小千谷市の山谷パーキングにあった城之腰遺跡を標識として「城之腰式土器」を提唱されているが、その土器相全体や分布域について不明な部分が多くある。

 「三十稲場式土器」は越後の後期在地土器として著名(写真上)。この土器は称名寺Ⅰc式土器から称名寺Ⅱ式土器までの時間幅に存在することは明らかであり、その分布域は馬高式土器より広いと考えられる。この文化現象も面白い現象だ。

 火焔型土器の広域分布が急激にしぼみ、小規模分布土器の時期を経て、さらに広域分布する在地土器文化が後期前葉期に出現する。

 さて、これ以降の縄文文化は極めて短い時間のなかで目まぐるしく変化する。変化速度が速いといえる。これは社会的背景に深く関わる現象と理解するべきだが、より具体的な説明ができない歯がゆさがある。

 後期前葉期以降の実態は不明だが、中期的な土器つくりが終焉を迎え、洗練された後期縄文土器が本格的につくられた。 魚沼地方では、南三十稲場式土器→三仏生式土器→後期末葉土器群へと変遷する見通しが立てられている。少なくとも、土器つくりの流儀全体が東日本で統一的な方向に向かうこととなり、社会的背景が明確にあったと考えるべきといえる。

 南三十稲場式土器は、関東地方の堀之内式土器の強い影響下で成立したと考えられてきたが、近年、南三十稲場式土器とは異なる「ひんご式土器」が成立・分布すると理解されてきた。

 この実態は、南三十稲場式土器文化圏の中に小文化領域としてひんご式土器分布域が形成したのか、ある特定の器種の分布域を指しているのか、私には分からない。この点については、これから慎重に議論する必要がある。

 さらに三仏生式土器の実態は、地方色が薄く、さらに全国統一的な流儀で土器がつくられているようだ。黒くて薄い土器であり、関東地方では加曽利B式土器と呼ばれている土器に極めて類似している。 

 土器の底には網代跡がくっきりと圧痕される特徴がある。これは土器つくりの際に、土器底の下に網代編みのアンペラを敷き、土器を回転させる簡易回転台が存在していたと考える。この存在は、土器文化としてアンペラ簡易回転台がシステムの一つとして組み込まれていたと推察される。

 より広域的に広がりを見せた土器文化の存在とその社会的背景は、複雑で高度な社会の成立を予感させる。これら後期中葉期の動きは、関東地方からのベクトルとして理解することが可能である。

 この代表的な遺跡は、十日町市の栗ノ木田遺跡と野首遺跡。共に川原石を大量に集落に運び入れて配石遺構を構築する(写真下)。これは祭壇であり、埋葬施設。地縁集団が集まり、結束を確認し合う儀礼社会が展開することで、極めて高度な狩猟採集栽培社会が形成していたと考えられる。

 後期後葉期は、さらに実態が見えていない時期だ。但し、十日町市の樽沢開田遺跡の成果を見るならば、関東地方からの文化波及ベクトルは弱まり、東北地方からの文化波及ベクトルが強くなった感じがする。

 特に、土器の底に多数の穴が開く、甑のような「多孔底土器」が大量に出土し、その量は中越地方最大量。その用途は不詳だが、津南町では破片すら見つけだすことのできない資料であり、もしかすると文化領域の境が旧中里村付近にあった可能性がある。

 津南町の当該期資料の評価は、正面ヶ原A遺跡に求められる。それによれば、中部地方に中心が認められる中ノ沢式土器の分布域に組み込まれていることが分かる。樽沢開田遺跡にも中ノ沢式土器は含まれているが、絶対量に違いがある。

第8回

縄文文化の終焉

第15図 正面ヶ原A遺跡配石墓2sn.jpg
第16図 堰下遺跡出土土器.jpg

 後期後葉期からは極めて複雑で高度な社会組織がつくられ始め、晩期に入り込むと東北地方に中心がある亀ヶ岡文化圏が波及し、その最南端が十日町市樽沢開田遺跡付近であったことは間違いない。逆に津南町正面ヶ原A遺跡や上原A遺跡、堂屋敷遺跡から出土した土器群は、長野県の佐野式土器であり、佐野式土器文化圏の最北端が津南段丘界隈であることは明確である。

 正面ヶ原A遺跡の沢地形では大量のトチの実作業が行われており、トチの渋さらし技術とそれによる粉食保存が深化していたことが予測できる。 さらに、高度な社会組織を背景に石組による石棺状配石墓が広場の南東側と南西側に分かれて群を形成して構築されている(写真上)。これら群構成の墓は、祖先霊の違いによるものである可能性があり、最低2系統の出自の異なる人々によってムラが構成されていたことが想像される。

 中期集落は、広場の真下に墓域が構築されたが、晩期集落では広場の隣接地に墓域が移動している。この晩期集落では、高床と推測される建物跡が広場を囲み環状に巡り、竪穴住居跡は沢筋の台地縁に直線状に並ぶ。このような光景も中期集落と大きく異なると考えられる。

 近年、十日町市おざか清水遺跡の第2次調査によって晩期後半の土器が確認されると共に野生種と栽培種の中間形態のヤブツルアズキの炭化種実が発見された。

 弥生時代の波及で栽培が始まるのではなく、縄文時代前期中頃から確実に内部的変革による初期栽培技術の胎動に始まり、その組織的形成を経て、それが背景となって社会の複雑化を招いた可能性がある。そして、中里の地で初期栽培技術の安定化が一歩進んで開始されたと考えられる。

 縄文時代晩期という時代を経て、列島規模で弥生時代へ突入する。弥生時代は縄文時代に比べて寒冷な環境であったと考えられる。

 妻有地方の弥生時代について、その具体的な様子は不詳。しかし、十日町市干溝遺跡では、井戸の発見や紡錘車、甕形土器の出土が認められ、柳木田遺跡では板状鉄斧が出土し考古学界が驚いた。 

 また、津南町堰下遺跡から出土した赤色土器群(写真下)は、千曲川上流域の御屋敷式土器であり、その文化的影響が越後の玄関口である津南段丘で検出された成果は高く評価され、古墳時代への開幕と東西文化の交流の一部がようやく垣間見えた瞬間だった。

縄文

第9回

縄文人が今に伝える雪国文化

第17図 沖ノ原遺跡sn.jpg

 妻有地方のアイデンティティは「雪国文化」にあり、その基層は1万年以上も続いた縄文時代にあるといわれる。その1万年以上も継続した縄文文化は、気候変動を経験し、列島全体を舞台に動く歴史と妻有地方を中心に展開する歴史が、複雑に絡み合いながら築き上られた。

 この縄文時代を代表するものが「火焔型土器」であり、その代表格が笹山遺跡出土の火焔型土器群。この笹山遺跡連合体は、広く妻有地方に点在しており、旧中里村の森上遺跡や津南町の堂平遺跡・道尻手遺跡、そして沖ノ原遺跡がその中核を担っていた。

 笹山遺跡が立地する中条地区は、中世以来の信濃川を渡る重要な交通の拠点に位置している。旧川西地区から鯖石川流域に至り、日本海に通ずる塩の回廊が想像される。

 近傍の飛渡川を上れば三坂峠があり、眼下の田河川を下れば魚野川の流れがあり、その対岸に清水上遺跡が構えており、その近傍の魚沼市四日町も交通の要所。流れ込む破間川を上れば六十里越えを経由して只見地方に繋がり、魚野川を上りつめ湯沢町川久保遺跡を通過すれば三国街道を越え、関東への玄関口となる。信濃川を上ると津南段丘地帯の集落群がおおよそ火焔のクニの南端中心部と考えられる。

 このように妻有地方に点在する火焔のクニ連合体は、多雪環境を背景に生きる知恵と火焔型土器に代表される先史芸術集団であったといえる。

 雪深い環境で自然の恩恵を最大限利用した「生きる知恵」と、火焔型土器の華麗なフォルムと流麗なる文様の構成は、この妻有の大地に生まれた「創造」であり、この「生きる知恵」と「創造」の糸が絡み合うことで縄が生まれ、さらには綱となり、強固なアイデンティティが形成されたといえる。

 美術的価値を背景に評価される出土遺物は、動産文化財。しかし、それらが埋蔵している遺跡は、不動産文化財であるために記録保存の名の下で破壊されてきた運命にある。

 そのような中でも、縄文時代草創期の十日町市壬・田沢遺跡と津南町本ノ木遺跡は、縄文文化の発祥を如実に語ることのできる遺跡として評価され、遺跡群として国指定史跡に登録された。

 また、火焔のクニを構成する各集落もその大半が破壊されてしまったが、旧中里村の森上遺跡や津南町の沖ノ原遺跡(写真上)は破壊されることなく現状のまま保存され、沖ノ原遺跡は国指定史跡として登録されている。これら「史跡」は、恒久的にその土地を保存するものであり、地域遺産として位置付け、連携した保存と活用が求められる。

 雪国観光圏における雪国文化の基層を担うこれら史跡群を再認識し、観光圏として活用する方策が求められる。また、雪国観光圏を構成する津南町と栄村は、地域資源とはジオ・エコ・カルチャーに分類されるものであり、それらが絡み合い歴史の座標軸に位置すると考えている。

 それら資源を保全する意味と意義、そして学術的成果を平易に翻訳し、ガイドがブラタモリ的にインタープリテーションすることで苗場山麓ジオパークの活動を推進している(写真下)。これらの活動も雪国観光圏における活動と位置付け、広域的な利用と連携を模索する段階にあるといえる。

 妻有地方の文化的黎明は、雪国文化の基層を探る入口にあり、『北越雪譜』の民俗学的世界との交差を経ることで世界に類を見ない「雪国文化」として発信することが、持続可能な観光の一丁目一番地ではないだろうか。この魅力ある雪国文化をさらに調査研究し、その成果を深化させ翻訳する作業に向かいたいものだ。

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