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妻有地方の先史時代.jpg

 縄文研究の第一人者・小林達雄名誉教授(國學院大)と共に妻有地域の縄文研究に取り組む佐藤雅一氏(日本考古学協会会員)の妻有地域30年間の研究活動の一端を9回に渡ってリポートする。

 【はじめに】

 妻有地方の文化的黎明は、その基礎的な研究は佐野良吉・石沢寅二によって進められ昭和33(1958)年に新潟県教育委員会が妻有地方を対象に実施した総合調査で、その全体像が初めて体系化された。執筆は中央考古学界で活躍していた中川成夫・芹沢長介に地元の石沢寅二が加わった。あれから65年の歳月が流れ、十日町市史・津南町史・川西町史・中里村史など自治体史の編纂事業によって、さらなる資料が追加され、妻有地方の文化的黎明期の関係性についても、その一部が垣間見え始めた。

 その後、開発行為に伴う発掘調査の実施と、その成果を踏まえたシンポジウムの開催を重ねたことで先史時代(旧石器時代・縄文時代・弥生時代)の実態がより鮮明になりつつある。

第1回

第1回

縄文1万年余、草創期と早期が50%以上

 北緯37度が走る妻有地方は、湿潤の重い雪が降る多雪地帯として知られる。しかし、この多雪環境は約8000年前の縄文時代早期に対馬暖流が日本海に流れ込むことで成立したと考えられている。暖かい海流から大量の水蒸気が発生することで多雪化現象が生じたということのようだ。

 すなわち、約8000年前を境界に乾燥した寒冷な冬季と湿潤の多雪環境が形成した冬季に分かれる。さらに火山活動など多様な要因で気候が変化する中で自然環境も静かに変遷したことが、湿地の花粉化石調査などで判明しつつある。

 旧石器時代は、まさに氷河時代にあった。当時の妻有地方を流れる信濃川は、もう少し標高の高い位置に河川氾濫原を広げながら蛇行を繰り返していた。縄文時代に入ると地球環境は世界的に温暖化に向かうが、草創期の終わり頃にヤンガードリアス期と呼ばれる寒の戻りが世界規模で生じ、人類活動に影響を与える。しかし、気候は回復し、少なくとも早期初頭にあたる1万年前後から確実に温暖化が安定した。温暖化は縄文時代前期中頃にピークを迎え、徐々に冷涼化するが、火焔型土器の時代である中期中頃には現在とほぼ同じ気候環境になった。その後、後期に向かい冷涼化が進行し、弥生時代には現在よりもやや寒冷な気候が生じていたと考えられる。

 ここに縄文時代の遺跡増減グラフを提示した。草創期には稀薄な活動が認められるが、草創期5・6期、まさにヤンガードリアス期に皆無に近い状態になる。早期3期から活動が活発化し、前期中頃に向けて活動が活発化する様子を読み取ることができる。中期から後期に掛けては前期の2倍以上の遺跡が残される。その過渡期である中期5・6期に減少傾向はあるが、それなりの数の遺跡が活動している。中期では2〜4期に、後期は2期に増加ピークがありその後は減少。特に後期5期以降、晩期全般において低調な活動が認められ、中期に比べると激減したと指摘できる。

 但し、このデータにはやや数字のマジックがある。縄文時代を草創期〜晩期まで6時期に区分して研究しているが、その各時期の継続時期が同じ(等質)ではなく、異なる(非等質)ことが、近年の精緻な年代測定成果で判明してきた。

 1万年以上の時間を持つ縄文時代の50%以上を草創期と早期が占め、前期以降晩期まで短い時間幅で変化することが理解できる。おおよそ、中期から晩期の変化速度は同じで、先ほど示した中期から晩期の遺跡増減は、データを素直に読み解き、その環境変化と社会的背景を探る手掛かりになる。

第2回

最古の狩猟民

第3図 正面ヶ原D遺跡sn.jpg
第4図 上原E遺跡sn.jpg

 ここで取り上げる時代は、土器を持たない旧石器時代で約1万6千年以前の歴史である。これまでの土壌に含まれる花粉化石の研究から寒冷な氷河時代にあり、尾瀬ヶ原に近い環境が妻有地方に広がっていた。そのような環境下でも苗場山麓に石器石材と獲物を目的に旧石器人が移動してきていたことが発掘調査で明らかになってきた。

 では、妻有地方最古の人類の足跡はどこにあるかといえば、津南町の正面段丘面に立地する「正面ヶ原D遺跡」。約3万年前の活動痕跡がある。細長い石を剥離し、一部を尖らせる原初的な石槍と刃先を磨いた石斧を装備している。妻有地方最古の歴史は、新潟県最古の歴史でもある(写真上)。この旧石器時代の歴史は、石槍の形態変化を軸に理解することができる。  

 約1万8千年前になると細長い石は、やや小形化し、その先端部と基部に加工を施し尖らせるようになる。刃先を磨いた石斧は見当たらなくなるが、新しく彫刻刀に類似する特徴的な刃部を形成する「彫器」と呼ぶ石器が加わる。その石器群は特徴的で「杉久保石器群」と呼ばれている。

 この杉久保石器群の標識遺跡が、津南町の「神山遺跡」。この遺跡の近傍で発見された「下モ原Ⅰ遺跡」と「居尻A遺跡」も杉久保石器群の遺跡であり、共に出土した石器が接合するという驚異的な成果が生まれている。

 石器は石を剥離してつくることから、その剥離面同士が接合する可能性がある。その原理を使い、2つの遺跡から出土した剥離石器の接合関係を検証した結果、段丘面の異なる遺跡(遺跡間600メートル、高低差40メートル)で石器が接合した。この成果は世界的に評価され、旧石器時代の移動生活の実態に迫る重要な成果を積み上げた。

この杉久保石器群の広がりは、野尻湖︱津南段丘︱下田段丘を括る約100キロ圏内に偏在的に発見されることで、その広がりが回遊的移動範囲であった可能性が指摘されている。

 ナイフ的な石槍は、身の厚い素材加工によって誰が見ても石槍とわかる形態に変化する。その時代は約1万7千年前の出来事だ。その典型的な石器群が津南町の「道下遺跡」で発見された。全面を加工する技術が獲得され、その加工手順を追うことのできる工房跡が明らかになった。

 さらに、約1万6千年前になると石槍を持つグループに特異な石器を保有するグループが遭遇する事態が生まれる。その特異な石器が、刃を入れ替えするカートリッジ式の刃部を持つものでシベリア—アラスカに分布域を持つ細石刃石器群。骨の柄に細長い溝を彫り、その溝に長さ30ミリ、幅7ミリ前後の細長い石を埋め込む「投槍器」と呼ばれる槍を保有する集団が現れる。

 これらの石器群には、数多くの彫器が組成される。その典型的な遺跡が津南町の「正面中島遺跡」。また、正面中島遺跡の細石刃に近似しながらも組成する石器や石材が異なる遺跡が津南町の「上原E遺跡」(写真下)。大量の黒曜石を使用する特徴があり、驚くことにその一部が北海道の白滝産であることが分析で明らかになった。

 この特異な石器群には、大型石槍や掻器、彫器に刃部磨製石斧が伴う。すでに1万6千年代は、世界最古の土器出現期であり、土器は検出されなかったが、旧石器時代から縄文時代の過渡期であることは間違いない。

 このように妻有地方に位置する苗場山麓段丘地帯では、厚いローム層の中で包含層位を違えて多種多様な石器群が発見される。中には、約2万5千年前に無斑晶ガラス質安山岩を求めていた瀬戸内系狩猟民が長野県境に流れる志久見川に至る。彼らは河原から人頭大の無斑晶ガラス質安山岩を拾いあげ、津南町の「加用中条A遺跡」で石器工房を展開する。そこでは北陸︱東北地方で見ることのできない横長の剥離技術による石器群がつくられた。この石器群に類似する遺跡が、近年津南段丘で複数発見され、その北端が三条市「御淵上遺跡」であることが知られている。

 もう一つ、約2万3千年前に黒曜石を多く持ち込み有樋尖頭器と呼ぶ特異な石槍が多数出土した遺跡が、志久見川右岸の「しぐね遺跡」。この遺跡は、北関東の石器群に類似し、長野県和田峠遺跡群の中に酷似する遺跡があることが判明している。

 このように、地方文化を保有する旧石器時代の狩猟民が、回帰的移動範囲の一部を重ねながら集団維持のための婚姻関係と石器石材を探りながら交流していたシナリオが浮かびあがる。約1万6千年前〜1万4千年前の2千年間は、大きな文化画期だ。すなわち、自然界の粘土に混和材を入れ生地をつくり、造形して焼成することで「土器」が生まれる。この土器つくりが常態化することにより、回帰的移動生活様式から定住生活様式へ、シフトチェンジする用意が始まる訳である。

第2回
第5図 干溝遺跡(撮影:小川忠博)sn.jpg
第6図 卯ノ木南遺跡 押圧縄文土器 (撮影:)小川忠博sn.jpg

第3回

縄文文化の胎動

 縄文時代の開幕は、土器の使用だ。この縄文時代は旧石器時代に次いで長く、約1万2千年は確実にあったと考えられる。この長い縄文時代は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6時期に区分して、その文化変動を研究している。

 これら6時期は、同じ時間幅を持つものではなく、非等質の時間で構成されていることが土器に付着していた炭化物の精緻な科学的年代測定で明らかになっている。新潟県全体では、草創期・早期の遺跡は皆無に近い状態にあるが、発見された当該期の遺跡は、津南町と旧中里村に偏在している特徴がある。

 草創期は、縄文文化胎動の時期であり、縄文時代の約31%の時間を保有する。隆起線文土器→押圧縄文土器→回転縄文土器へと変化することが予測されている。

 隆起線文土器以前の土器には、津南町の寺田上A遺跡の「斜格子沈線文土器」があるが、異論も多く市民権を得ていない。概説書的に触れるならば、旧中里村壬遺跡には、As—K(浅間草津)火山灰の下層から無文土器が出土しており、隆起線文土器以前の土器として周知されている。すなわち、日本最古級の土器発見地だと評価される。隆起線文土器も壬遺跡あるいは近接する田沢遺跡の形態的特徴が古相を示している。

 次に旧中里村の久保寺南遺跡や干溝遺跡(写真上)、津南町の屋敷田Ⅲ遺跡や北林C遺跡などを挙げることができる。すなわち、縄文文化発祥の地こそが妻有地方の苗場山麓であるといえるのである。

 押圧縄文土器の段階では、津南町本ノ木遺跡・卯ノ木遺跡・卯ノ木南遺跡(写真下)、旧中里村の小丸山遺跡・おざか清水遺跡・中田D遺跡などがあり、定型的な流儀を示す土器群がまとまりをもって分布している。さらに、回転縄文土器の段階になると遺跡数が激減する事態になる。その頃はヤンガードリアス期と呼ばれている寒冷期にあたり、それが原因と推測される。

 そのような中にあって稀薄な活動が津南町の堰下遺跡で認められ、阿賀町室谷洞窟遺跡を標識とする室谷下層式土器の仲間が出土した。また、魚沼市黒姫洞窟遺跡にも同様の類似土器が出土しており、面としての活動は認められないが小さな点としての活動痕跡を丹念に結ぶ作業が続けられている。

第3回

第4回

本格的な縄文文化の開始

第7図 干溝遺跡住居跡sn.jpg
第8図 芦ヶ崎西平遺跡sn.jpg

 早期はヤンガードリアス期を越えて温暖期の入り口にあたる。関東平野では、数多くの集落が営まれ、貝塚が形成され、その研究からは外洋へ漕ぎ出してマグロを捕獲していた人々がいたことが分かっている。さらに草創期の土器量の約10倍以上の土器製作が行われていることから、本格的な縄文文化の始まりとの評価もある。

 早期は撚糸文土器→押型文土器→沈線文土器→条痕文土器→絡条体圧痕文土器へと5段階に変化。土器の形は、底が尖る尖底土器を主体にしながらも、条痕文土器段階から平底化の傾向が認められ、早期末の絡条体圧痕文土器段階で平底に変化する。

 撚糸文土器の遺跡は少なく、旧中里村の干溝遺跡と津南町の大原遺跡が代表格。住居跡が検出されているのは干溝遺跡だけであり、それらが複数で集落を形成していることが判明している。すなわち新潟県最古の集落遺跡が干溝遺跡だ(写真上)。

 次に展開する押型文土器は、西日本から中部日本を中心に展開する土器群であり、その北端部に妻有地方が位置付けされる。押型文土器の出土範囲はやや広くなり、新しい十日町市域にも散在するようになるが、やはり津南町と旧中里村に偏在性を認めざるを得ない。

 津南町の卯ノ木遺跡は、「卯ノ木式土器」の標識遺跡であり、その周囲に特異な押型文土器が分布する。施文原体は、木質あるいは骨質と推測されるが検出事例がないので不詳。実験で文様の二条菱目文を木質で復元すると、その施文原体製作技術の高さとその伝習性を考えてしまう。

 その分布は、津南町—野尻湖に偏在するものの、魚沼市黒姫洞窟遺跡や福島県塩喰岩陰遺跡、岐阜県宮ノ下遺跡に飛び石的に発見され、伝習性を背景に興味深い事実だ。

 沈線文土器は、東北地方を基盤とする土器群であり、動きとすれば北から南へ移動し、押型文土器文化後半期に入り込み定着し、西日本の押型文土器末期には妻有地方では、確実に沈線文土器群に入れ替わっていることが判明している。

 その沈線文にはサルボウ貝などの放射筋縁を器面に押し当てギザギザ文様を付ける特徴があり「貝殻腹縁文土器」とも呼ぶ。十日町市の通り山遺跡を主体に旧中里村穴川遺跡や津南町正面ヶ原B遺跡・丸山D遺跡・別当A遺跡などに分布し、湯沢町岩原Ⅰ遺跡や長岡市西倉遺跡、三条市長野遺跡などでより北方への分布域が認められる。

 条痕文土器は、早期末まで継続する土器群であり、その終末段階に絡条体圧痕文土器が津南段丘近傍に偏在する特徴がある。

 これら条痕文土器群のうち古相の土器の実態は不詳。しかし、「鵜ヶ島台式土器」と呼ぶ関東系土器が明瞭な形で苗場山麓に入り込んでいる。三国峠を経由し、湯沢町龍岩窟遺跡や津南町正面ヶ原D遺跡、旧中里村の干溝遺跡で確認することができる。また、茅山下層式土器が津南町芦ヶ崎西平遺跡の第1号住居跡の床面から潰れた状態で取り上げられ復元されている(写真下)。

 新相の絡条体圧痕文土器は、長野県北部から苗場山麓界隈に分布域を持ち、津南段丘では数多くの遺跡が確認されている。その急増現象の背景は不明であり、その状況は長野県とは異なり特筆される。 

 津南町の屋敷田Ⅰ遺跡や堂尻遺跡は古くから注目され、その後に飛沢B遺跡・丸山遺跡・涌井池遺跡・貝坂桐ノ木平C遺跡など多くの資料が資料報告されている。また、旧中里村干溝遺跡からは、縄文を胴部下半に転がす絡条体圧痕文土器が復元されており、専門的には早期と前期を結ぶ貴重な資料であり、その評価について確定していない状況にある。

 個々で触れた早期という時代は、縄文時代の約34%を占める時間軸を持つ。その前半期、おおよそ押型文土器前半期の約8000年前に対馬暖流が日本海に流れ込むようになり、冬季の水蒸気量が増大したことで乾燥した冬季から湿潤で重い雪が降る多雪環境が生まれたと考えられている。すなわち、雪国文化の原点がここにあるといえる。

(次回は雪国文化の基層が動く)

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