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昭和の​アルバム

シリーズ連載

モダンな洋館の山内写真館だが平成21年に閉店した(昭和30年夏)

初代店主の山内正治氏とアンソニー写真機(昭和22〜23年頃)

スタジオ撮影する2代目の山内与喜男氏(昭和30年頃)

次の世代へのメッセージ

数多くの記録を残した山内写真館(昭和30年)

十日町市博物館学芸員 髙橋由美子さん

 国道117号線沿いで本町2丁目と諏訪神社へ続く道路の角にあった『山内写真館』は明治時代から初代の山内正治氏、与喜男氏、景行氏の三代の店主が約100年間にわたり、市街地を中心として街並みや風俗、行事、産業、人物などを撮り続けてきた。

    ◇◇◇

 上の写真は65年前の昭和30年(1955)に撮影した山内写真館。屋根は和風の瓦を使っているが2階建ての洋館で、商店街を屋根で繋ぐ雪国特有の雁木(がんぎ=現在のアーケード)を支える柱は円柱でモダンな作りになっている。幌を掛けたオープンカーと思われる乗用車の後ろには諏訪神社の石柱が立つ。

 中段の写真は初代店主の山内正治氏で昭和22〜23年頃(1947〜48頃)の撮影。着物姿でスタジオ用大型写真機アンソニーを扱っている様子。当時の撮影は自然採光で、写真館スタジオ2階の上は三角屋根で採光用ガラス窓があった。

 下段の写真は2代目店主の与喜男氏で昭和30年頃。女子生徒3人をアンソニー写真機で撮影しているところで、この頃には電気を利用した照明器具を導入している。

 同館が明治から大正、昭和、平成と撮影して保管してきた紙焼き写真、ネガフィルム、ガラス乾板など約4万8000点が平成20年(2008)に十日町市に寄託された。市と十日町市古文書整理ボランティアが協働で整理してデジタル化等に取り組み、新たな地域の記録遺産として活用が進められ、6月1日に開館した新十日町市博物館でも展示に利用されている。また、十日町情報館では3000点を閲覧することができる。

    ◇◇◇

 市に写真類が寄託されるきっかけについて市博物館学芸員の髙橋由美子さんは「平成16年(2004)の中越地震で越後縮問屋(ちぢみどんや)加賀屋の土蔵も被災し、中に保存してあった古文書類を預かり目録を作るため、景行さんに絵図を撮影してもらった際に『写真館とは別棟に先代、先々代が撮った写真類がぎっしり棚にあったが地震で全部落ち散乱した。2年間かけて3000点を自分で整理してきたが、もう限界だ』と話を聞いた時に、地域の人たちが歩んできた記録は古文書などの文字資料だけではなかったと、はっと気付いた」と振り返る。

 地震を機に市内の被災家屋から古文書だけではなく写真も捨てられていることが分り、山内写真館もその危機に瀕していた。「景行さんは写真資料の大切さが身に染みて分かっていましたが、保存と活用を含めて危機感を持っていた」と言う。

 市では景行さんが整理した写真類3000点だけではなく、すべてを預かった方が良いという判断で、当時古文書を扱っていた情報館に運び込まれ寄託された。山内写真館の写真は記録性に優れ、定点観測的に撮影したものが多いことから時代の変遷も見ることができる。しかし地域への密着性が高いため地域外の人が見ても分からない。地域内であっても後世の人には、どういう写真なのか分からなくなる恐れがある。きちんとした保存と活用への質を高めるには撮られた側の「機屋に勤めていた、祭りで神輿を担いでいた」などの体験と記憶を写真と共に残す必要があった。

 市古文書整理ボランティアは写真チームを編成。メンバーは自らの体験と記憶もたどり、写真に写った内容と情報を読み取りながら写真資料カードに記入。平成21年〜25年の間は作業回数112回、参加延べ人数は1500人余りに上った。

 さらに毎年情報館で写真展を開き、来訪者から写真に写る情報を収集して記録の精度を高めた。アンケートには高齢者は「懐かしさから力が湧いてきた」などと記すが、若い世代は昭和年間の雪に埋もれた商店街の写真を見て「昔は雪がものすごかった」と感想を書く。「雪の量は今も昔も変わらないが、いかに排雪するかを工夫して体制を整えていった経緯を、市民である若者が知らないでいる」と話し、写真の記録的価値を再認識する。

 写真ボランティアたちは高齢や病気などで参加できなくなった人もいる。髙橋さんは「現在のメンバーは自分たちが元気なうちに記録しなくてはと使命感を持ち作業に当たっています。山内写真館の写真は若い世代へのメッセージ。メンバーが選んだ写真を綴り『わたしの一枚写真集』を作ってみたい」と話している。

(2020年6月27日号掲載)

宝暦11年に再建された熊野社は平成10年に解体された

境内中程に立っていた巨木の夫婦杉(平成8年)

上棟式の餅まき。右手前が夫婦杉の切株(平成10年)

戦国時代からの住民の象徴

住民が守り続けた熊野社と夫婦杉(昭和3年)

十日町市川西地区仁田 木村喜郎さん(昭和25年生まれ)

 旧川西町仁田地区の鎮守の熊野社。住民からは「熊野神社」と呼ばれ、境内にあった2本の巨木「夫婦杉」(めおとすぎ)と共に氏子ではなく住民が長年にわたり守り続けてきた。大晦日と正月、小正月、お盆、秋の祭礼、七五三の宮参りなどと一年の節目、人生の節目に参拝。住民の拠り所であり、子どもたちには格好の遊び場で歓声が響いていた。

 川西町史、十日町市史津南町史等の編纂に携わった同地区出身で東大博士の山田邦明さんによると、地区に残された古文書や資料等から熊野社創建は今から約480年前(1540年代頃)の戦国時代と推察する。平成10年(1998)に神社再建のため解体されたが、屋根裏から神社について書かれた棟札(むなふだ)が発見され、259年前の宝暦11年(1761)に再建されたことが分かった。それより83年前にさかのぼり、地区内に保存されている天和3年(1678・徳川綱吉将軍時代)の検地帳には、熊野社には古い杉がすでに2本立っており、検地役人から古い社(やしろ)と判断され、敷地に対する租税が免除されたことが記されている。上の写真が熊野社再建竣工記念誌に載っている宝暦年間に再建された茅葺き屋根の熊野社で、昭和3年(1928)に撮影された。

 夫婦杉は老朽化で危険なため平成8年(1996)5月に伐採されたが、中心部は空洞になっていた。山田さんは残された年輪を数え、失われた部分の年輪を他の杉と比較して「伐採時からおおよそ450年前に境内に植樹したのだろう」と考える。越後から信州、関東、北陸と勢力を伸張した戦国武将の上杉謙信は1530年生まれで「古い領主に代わり新興勢力が力を伸ばし、百姓は連合体としての村としきたりを作ったのがこの時代。仁田を支配していた武士が創建したのではなく、神社造営は我々の先祖の百姓たちが自立を象徴する記念的事業として行ったのであろう。熊野社の歴史は、まさしく仁田とそこに生きた人々の歩みを象徴的に物語る」と竣工記念誌に山田さんは書いている。

 木村さんは「創建時からの伝統かどうか分からないが、地区内の組が1年交代で境内の草取り、盆踊り、祭りの準備、大晦日のロウソク当番、小正月のどんど焼きのボヨ(細枝の薪)を刈ってくるなどして住民が神社の世話をしてきた。また、維持管理をする専従者一人を区が手当てを出して数年交代で守ってもらってきた」と言い「9月の熊野社秋季大祭では区長、役員、組長を中心に仁田熊野社神輿会、年配者が作る仁田熊野会、青年団、商工会などが盛り立ててきた。昭和40年代終わりぐらいまで続いた民謡流しは住民総出で賑やかなものだった」と神社護持が脈々と続いていることを語った。

 神社と共に仁田の象徴だった夫婦杉だが、神社の写真を撮り続けてきた木村さんは、並んで立つ杉が年々傾き間隔が広がってきているように感じた。樹木医にも診てもらい区では倒木の危険があると判断して伐採を決めた。境内の中ほどに立つ堂々とした夫婦杉の写真は伐採の6日前に撮ったもの。杉にはしめ縄を回し、住民はその周りでお別れ会を行った。平成8年5月25日、住民が見守る中、お祓いを受け惜しまれながら伐採された。倒された杉の切り口は3㍍程もあった。伐った杉は乾燥後、直径15㌢程の球状に削り出して首を付け、中心に穴をあけて銅製の筒を差し込み一輪挿しを制作。記念品として区内全戸に配った。

 30年余りの地区の懸案だった熊野社の再建が決まり、解体は平成10年9月、上棟式は翌年4月に行われ、餅まきに集まった住民らは喜びの表情だった。11年(1999)7月に工事は完了。御神体は神社のすぐ脇の仮宮に収められていて、新しい神社に御神体を移す遷座祭(せんざさい)は夜に行われた。宮司と四角い灯篭2本を先頭に御神体は鳥居をくぐって静々と進む。堂内では奏楽が奏でられる中、神事が行われ御神体は真新しい神社に鎮座した。

 再建の委員会は区長が中心となったが「再建は賛否両論、様々な意見が交わされた。簡単に決まるものではく、再建が決まった後の段取りの苦労も並大抵ではなかった。役員は大変だったが、新しい立派な神社を見ると、その存在感を改めて感じた」と話していた。

(2020年6月20日号掲載)

仙之山で田村さんが行った法弓の儀(昭和55年)

改修移築直前の大藏院本堂(平成2年)

市内唯一の修験道寺院・大藏院

山伏による60年に一度の庚申祭(昭和55年)

十日町市下条岩野  田村行観さん(昭和9年生れ)

 古来から山々には神が宿ると考え、それを信仰する修験道(しゅげんどう)は約1300年前に役行者(えんのぎょうじゃ)が開いたとされる。後に仏教とも融合して神仏習合の宗教となった。十日町市下条岩野にある『本山修験宗薬師山大藏院』も修験道寺院の一つで、古くは北林山薬師寺と称した。

 同院の第63世住職の田村行観さんは「護摩壇(ごまだん)の下に以前の住職の名前が書いてあり、そこから数えると私が63代目で、当院の創建は約1200年前と伝えられている」と話す。

 長い歴史を持つ修験道だが明治元年(1868)に政府は神仏分離を、5年には修験道廃止令を出し、修験者(山伏=やまぶし)たちに神か仏のいずれかにつくことを強要した。3魚沼地方の修験道の多くは天台宗派に、一部は真言宗醍醐派に変え、神職に転じる者もいた。また、平民に還俗(げんぞく=庶民に戻る)し、廃寺するところもあった。だが、大部分が他宗に帰属しながらも修験者たちは旧来の修験活動を続けた。

 十日町を含む中魚沼郡の修験系の寺は、明治元年に36寺あったが、昭和40年(1965)には13寺に減少した。近年の市内三つの修験系寺院の状況だが、中条の飛渡地区小貫(こつなぎ)の寺は中越地震が原因で平成19年(2007)に廃村になったことから、中条の平場、上原(かんぱら)に出たが本堂は設けなかった。田沢にあった寺は廃寺し、寺院の形態を残すのは大藏院だけとなった。

 曹洞宗などの寺の住職は「方丈様」と呼ばれるが、修験系の住職は位の一つ法印から「法印様」と呼ばれ住民に親しまれた。下条には大藏院以外に2軒の法印様という屋号の家があるが「当院からの分かれであったのだろう」と推測する。

 田村さんの祖父と父は天台宗の比叡山延暦寺で修業したが、田村さんは京都市左京区の本山修験宗総本山聖護院(しょうごいん=天台宗)で昭和27年〜30年にかけて修業。修験道では霊山高峰に入り修練を積むが、田村さんも寺院内だけではなく高野山、葛城修行、大峯奥駈修行と山谷を駆け巡り、大自然の中で実践を積み心身を磨いてきた。修行中の山伏は鈴懸(すずかけ)という法衣を着て手甲、脚絆を付けワラジ履き。法螺貝(ほらがい)を首から下げるが「岩などに当たらないよう気を付けないと法螺貝が欠けたり割れたりしてしまう。山中は道標も無く、木々で前も見えず、法螺貝の音が『登れ、止まれ、今祈祷をしている』などという合図の役割も果たした」と説明する。

 先代が亡くなった昭和52年(1977)に住職を継いだ。他宗の寺は檀家を持つが、修験系の寺は信徒を持つ。大藏院本堂中央には祈祷を行う護摩壇が据えられて、正面には本尊の古峰原山金剛童子の他、役行者、薬師如来など14体の仏像が安置されている。中には廃寺になった寺から受け入れた仏像もある。

 大晦日の夜は信徒が本堂に集まり、長さ15㌢程の添護摩木に願い事と名前を書く。除夜の鐘が鳴る頃、田村さんは護摩壇に火を点じて、添護摩木に書かれた願い事と名前を読み上げながら火にくべ祈祷する。信徒は護摩壇に手を合わせ、それぞれの仏様の前で合掌し願いをかける。かつては毎月、金剛童子の命日の17日に護摩を焚いていた。

 夜が明けると元旦から『御日待』(おひまち)のために信徒の家々を巡る。御日待は荒神様(火と台所の神)を主にして、家中の神様を全部呼び出し、家内が一年中息災でいられるよう祈祷するもの。御日待の前には手書きの御札と、和紙を切ってヨシの茎に挟み幣束(へいそく)を作っておく。「信徒の家に行くとお盆に米が盛ってあり、そこに幣束を刺して祈祷する。毎年行く日を決めているので、時間がかかり夜中になって家の者が寝ていても、堂々と家に入って座敷の床の間に行き祈祷してきた」と笑う。「1か月かけて360軒ぐらい回った。おかげで信徒も増えて600人程になった」と振り返る。

 上の写真は鈴懸を着た田村さん。40年前の昭和55年(1980)に下条の山間部、仙之山集落で撮影したもので、60年に一度の「庚申祭」(こうしんさい)の様子。悪を討ち払うために東西南北と中央、鬼門に向けて矢を射る。仙之山の他に地区内の上新田、反り目、廿日城、桑原、野田、蟹沢、漉野、二子、戸度、さらに小千谷や川西方面も行った。小貫の法印様を供にして旧十日町市博物館隣の郷土植物園、庚申塔の前でも庚申祭を執り行い、庚申の祭事は全部で22か所に上った。「信徒と住民の願い叶えるために祈祷から地鎮祭、集落の祭事、厄除けなどを行ってきた」と語った。

(2020年6月13日号掲載)

本堂中央には護摩壇が据えられる

左上は福島家で雑木林を切り拓き農地に変えた

全長100㍍のアーチ型蚕舎を含め3施設を建設した

蚕の餌となる桑が大量に必要で桑畑は9㌶もあった

昭和​年代に開墾から始まった珠川

稲作・養鶏・養蚕へゼロからの挑戦(昭和32〜33年頃)

十日町市珠川 福島 至さん(昭和25年生まれ)

 150万坪の当間高原リゾートの「ファームビレッジ」と位置付けられている珠川(たまがわ)の成り立ちは戦中から戦後の混乱期。深刻な食糧難に対応する国策の一環で開拓し、新たに作られた村だった。珠川で地元農産物と消費者を繋ぐ店『マルシェたまがわ』を経営する福島至さんは「我が家の入植は昭和27年(1952)。私は2〜3歳でしかなかったが、1歳の妹と牛車に乗せられ珠川に向かったことをうっすらと覚えている」と思い起こす。

 昭和6年(1931)の満州事変から戦争の時代が始まり、16年に(1941)太平洋戦争に突入すると食糧と物資の窮乏は進み、政府は農地開発営団を作って全国農地造成50万㌶構想を打ち出す。珠川は当時、念珠という地名で3軒の家があるのみだったが、念珠周辺の広大な土地が注目された。しかし、そこは旧馬場村、旧水沢村の住民が薪や用材などを採取する入会地(いりあいち)だったため開拓は猛反対を受けたが、営団は16年〜18年と設計と実地測量を行った。学徒勤労奉仕隊や15歳程の農家の長男を集めた農兵隊の協力で開墾が一部始められたが戦局の激化で中断した。

 敗戦の20年(1945)以降も食糧難は解消されず、今度は農林省直轄で開拓は継続されることになった。戦前から開拓は自作農創設を目的にしたものであり「占領軍勧告の農地解放は、開放を期待する農民と農地を手放さなくてはならない地主との間でし烈な対立があった」と語る。21年に政府の開拓許可が下りて60戸を入植させようと計画を立てたが地主との交渉で40戸に留められ、72年前の昭和23年(1948)にようやく10戸が入植。第一次開拓者は念珠の「珠」と旧中里村との境にある水沢川の「川」をとって「珠川」と地名を定めた。県の補助で2間×3間の小さな家が与えられ「空腹なのに一日中鍬を振るってもせいぜい2〜3坪ぐらいしか開墾できなかった」と当時の言葉が記録に残る。

 旧水沢村出身の福島さんの父、源一さんは大正15年(1926)生れで83歳で亡くなったが、戦時中は兵士として朝鮮に上陸。旧ソ連に進み捕虜となったが昭和22〜23年頃に復員した。妻と二人の子、数羽の鶏、山羊を牛車に乗せ、珠川の雑木林に第二次開拓者として入植。だが、すぐに作物がとれるわけではなく実家から米などを援助してもらい辛苦の開拓に挑んだ。この頃に計画の入植者40戸が珠川に揃った。

 やがて「戦車を改造したようなブルドーザー」が開拓に導入されて4つのダムも昭和33年(1958)に完成。上の写真には福島さんの簡素な木造住宅とブルドーザーが均したキャタピラの跡が写る。珠川の土は赤土で畑作には向くが水田には不向き。「赤土の田は保水力が弱い『漏水田』で、良い田にするために長年骨を折った。小さい頃は草取りを手伝い、暗くなるまで田植えをしていた。麦踏みもした覚えがある。今ではバルブをひねれば好きなように水を田に引くことができ、隔世の感がある」と語る。51年(1976)には珠川全体で2500俵(150㌧)を収穫している。源一さんは養鶏にも取り組むが大規模化しないと市場で太刀打ちできないことが分かり断念した。

 昭和40年代に入ると開拓は落ち着いてきて、源一さんは絹の原料となる養蚕(ようさん)を勧められ、福島さんは両親と共に「気が遠くなるほどの根気が必要で重労働の養蚕業」を始めた。十日町の着物産業は戦後の復興を遂げ、30〜40年代は絹織物の需要が増え続けた時期でもある。昭和46年(1971)から減反政策が実施され、福島さんは水田の8割を整地して蚕(かいこ)の餌の桑を植えて永年転作した。翌年には繭生産量が県内1位となり、50年代には全長100㍍もの耐雪アーチ型蚕舎(ハウス)を建設。生産量全国3位になったことが3回あった。病気に弱い蚕のため、ウイルス対策として成長の度合いにより3つの蚕舎に分けて成育させた。

 だが、バブル経済崩壊により養蚕も大打撃。平成3年(1991)を最後に福島さんは養蚕から撤退した。「開墾で根性が培われ、親子二代でよく頑張ったと思う。珠川の住人は挑戦の連続だった」と言う。やがて時代は変わり開拓者の村、珠川は当間リゾートへと向かっていった。

(2020年6月6日号掲載)

十日町駅を出発した多くの若者が帰らなかった

国防婦人会が戦地へ送る慰問袋を詰める

銃後を守る女たちが防空頭巾を被り演習した

十日町市博物館所蔵/山内写真館資料

十日町駅での出征兵士の見送り(昭和15年頃)

十日町市本町東1 瀧澤榮輔さん(大正13年生まれ)

 十日町駅での出征兵士見送りの写真を見て瀧澤榮輔さんは『君死にたまふことなかれ(死なないで下さい)、親は刃(やいば)をにぎらせて、人を殺せとをしへ(教え)しや、人を殺して死ねよとて二十四までをそだてしや』と、見送る家族の心情を日露戦争中に発表された与謝野晶子の反戦の詩で言い表した。

 瀧澤さんは「日清・日露戦争、第一次世界大戦を経て日本は軍閥政治となり、昭和6年(1931)の満州事変から太平洋戦争敗戦の20年(1945)までの14年間が昭和の戦争の時代で大変な悲劇があり異常な体験をした。多くの若者が亡くなり、俺ばかりが生き残ったという贖罪の意識と後ろめたさがいまだにある」と語る。

 瀧澤さん自身も76年前、戦争末期の19年(1944)に十日町駅から見送られた一人。県立十日町中学校(現十日町高校)から官立桐生高工(現群馬大学工学部応用化学科)へ進学したが、学徒出陣(17年以降、戦死者増加により19〜20歳の高等教育機関在籍の学生を徴兵)が進み、日本石油中央技術研究所の試験に受かっていたが「世の中は志願せざるを得ない状況」で海軍の試験を受けた。海軍技術士官になるため静岡県の部隊入隊が決まり急きょ帰郷。「2日ほど自宅にいて、出発当日は学生帽を被り寄せ書きしてもらった国旗をたたんでタスキ掛けにし、家族に親類、近所の人から十日町駅まで送ってもらった」、そして「飲み込みが早い優秀な学徒は飛行機の訓練をさせられ、特攻隊としてアメリカの軍艦に突っ込み命を散らした」と思い起こす。

 見送りの際「表向きには『勝ってくるぞと勇ましく』だが、妻や幼な子、親、年老いた祖父母を置いていく切なさは言葉では言い尽くせない。残された家族は食糧難、物資窮乏の中、働き手のいない家庭を守るのはいかに大変だったか」と言う。

    ◇◇◇

 3枚の写真は同時期に旧山内写真館が撮影したもので、瀧澤さんは昭和15年頃(1940頃)だろうと推測する。「十日町で召集された男たちの多くは高田や新発田の陸軍部隊に入隊させられ中国戦線に送られた。割烹着を着た女たちの写真は『大日本国防婦人会』が戦地の兵士に送る『慰問袋』を詰めているところ。缶詰や日持ちがする菓子、日用品、激励の手紙などを入れたが、太平洋戦争が16年に始まると物資が足りな過ぎて慰問袋を送るどころではなくなった。国防婦人会の防空演習は一ノ丁(現在の本町2丁目)で行っており、バケツリレーで水をかけている屋根は十日町新聞社。銃後(戦線を後方で支える国民)の女たちの姿だ」と説明する。

    ◇◇◇

 市史リポート十日町には旧中條村の日中・太平洋戦争への動員状況等が載っている。町村の兵事関係書類は敗戦直後に中央からの指示で焼却されたが、同村の書類は個人が保管していて残った。中條尋常高等小學校尋常科(16年から國民學校初等科に改編)の昭和9年(1934)3月卒業生(20年4月当時で23歳)男子の94・4%が従軍し、帰還者が53・7%、戦没者が40・7%という悲惨な数字で、次いで多いのが8年卒業生で89・5%が従軍したと記録されている。また、17〜18年卒業生は満蒙開拓青少年義勇軍に従軍。戦後の21年冬に中国で死亡しており、わずか15〜16歳だった。村の少年から働き盛りの男たちが根こそぎ兵力として動員されていて、いかに無謀な戦争だったかが推し量れる。

 一方、新潟県は戦局の悪化と共に徴兵年齢が下がっていくことを懸念し、敗戦後を見越して少年たちを守る動きをした。中條の隣村で、当時下條國民學校高等科2年の村山一男さん(昭和5年生れ・故人)は昭和19年、15歳で『農兵隊』に召集された。「他県では単に食糧不足を補おうと少年を集め農兵隊として開墾等をさせていた。だが、新潟県は将来農業の担い手となる農家の長男が戦地にとられないことを目的に県農兵隊を組織した。私たちは県内で農地整備や軍需物資生産などに従事して夜は農学校の教員から授業を受けた。十日町や中魚沼から180人の子どもたちが集められ、県全体では1800人に上った」と話していた。

 瀧澤さんは「戦争がどれ程の人を死なせ、悲しませ、苦しめたことか。戦争は絶対にしてはならない」と力を込めた。

(2020年5月30日号掲載)

国道117号線には荷車の行列ができた

下條駅通りの倉庫脇で検査を待つ

地元の農業振興に努めた農協

俵で運んだ米出しの風景(昭和32〜33年)

十日町市下条 村山兼太郎さん(昭和13年生まれ)

 昭和12年(1937)の日中戦争から日本は戦時体制に入り、産業組合等は自主的な運営は失われていき、肥料の一元的配給、米の一元集荷機関などとなっていく。大戦末期の昭和19年(1944)には農会、産業組合、養蚕組合、畜産組合などが統合した農業会が発足。これは戦争のための国策機関で、中魚沼郡農会は県農業会中魚沼郡支部となった。農家は農業会に強制加入させられ退会も認められなかった。

 昭和20年の敗戦後、連合国最高司令官総司令部は農村の民主化政策の一環で、戦争協力団体の農業会の解散と農地改革を農村に対する二大占領政策とし「農業共同組合法の公布に伴う農業団体の整理等に関する法律」により農業会は23年(1948)に解散。農民のための民主的組合として同年、中魚沼郡内の農業協同組合は中條村が先頭を切り設立。その後、市内では十日町、水沢など計10組合が認可された。

    ◇◇◇ 

 旧下條村(現十日町市下条地区)の農業会は国道117号線沿いの現下条公民館から北へ70㍍程の場所にあった。下條農協も23年に設立。現公民館の位置に作業場、国道を挟んだ向かい(現Aコープ下条店の位置)に購買店舗と事務所、そこに隣接する下條駅付近には籾(もみ)倉庫、土蔵倉庫(昭和37年頃には鉄筋造の準低温倉庫に建替え)が建てられ順次施設を充実させていった。下條農協は貨車引込線がある駅を大いに活用し、米などを東京、名古屋、大阪方面に出荷し、肥料や飼料等、必要な物資を運び入れた。元下條農協職員だった村山兼太郎さんは「国道と駅が近く良い立地だった」と言う。

    ◇◇◇

 当時、下條は市内の畜産の中心地で豚に牛、ヤギ、ニワトリと種類は多く、村山さんは畜産係を25年間担当。「小さい農協なのでなんでもやった。家畜の人工授精から米や野菜の営農指導もし、繭もあったのでとにかく忙しかった」と振り返る。

 写真は昭和32〜33年頃(1957〜58)の10月に村山さんが撮影した下條の米出し風景。農家は冬仕事に手間をかけて藁を編み俵を作る。秋にはそれに米を詰め荷車に載せて農協に出荷。俵の数が多い農家は1回農協に降ろしてから自宅に戻り再度積んできた。山間部の農家は荷車を牛や馬に曳かせる。奥地の集落は農協まで5㌔以上もあり、山坂を超える運搬は容易でなかった。

 朝は早いと4〜5時頃から米出しが来て、村山さんたち職員はそれに合わせ薄暗いうちに出勤。受付では票箋(ひょうせん=荷札)を貰い住所と名前を書いて俵に付ける。米の品質検査には新潟食糧事務所の検査官が来るが二人だけなので数百㍍もの荷車の行列ができた。検査官は刺(さし)を俵に突き刺して米を少量抜き取り明るい所で光を当てて検査する。検査が終わると1等、2等などのハンコが俵に押され倉庫に積み上げた。多い日には8百〜1千俵も運び込まれ、年によって違うが下條全体で8千〜1万俵の米が集まった。

 1俵に約66〜67㌔の米が入っており、二人が俵の左右を持ち上げて、一人がその下に肩を入れて担ぐ。幅40〜50㌢程の足場板をスロープにして、等級のハンコが見えるように俵を15段ぐらいに積み上げる。「男の職員は総出だが、それでも足りず集落に割り当てで人夫を出してもらった。重労働だが嫌だなどと言わずに来てくれ、ありがたかった」。そして「等級の1〜3等はいいが、4等以下はがくんと値段が下がってしまい気の毒な人もいた」と語る。

 大昔から使われてきた俵だが、40年代に入ると麻袋に変わっていった。

    ◇◇◇

 設立当初の10組合は集約され昭和30年代には8組合となっており、36年には高度経済成長に対応した「農業協同組合合併助成法」が施行され農協を整備強化する動きが進む。市内の十日町(組合員758人・職員13人)、中条(1477人・40人)、下条(933人・17人)、吉田(408人・13人)、南部(489人・19人)、六箇(239人・4人)、川治(637人・17人)、水沢(791人・21人)という規模の8組合が56年前の昭和39年(1964)8月1日に合併して「十日町市農業協同組合」が発足。豪雪山間地の農業振興を図った。

(2020年5月23日号掲載)

検査官が検査し米の等級を付ける

倉庫に15段ほど俵を積み上げた

上部ネットはトンネル内でのツララ切りで運転手を怪我から守る

40年ぶりの運行で人々があふれた下条駅

片側三つの動輪を持つC56形機関車

沿線住民の心に残る蒸気機関車

地域の運輸を担ったC56形(昭和40年年代)

木村喜郎さん(昭和25年生れ・十日町市川西地区仁田)

 かつて飯山線の南北を駆け抜けた国鉄C56形蒸気機関車(SL)。「シュッシュッポッポ、シュッシュッポッポ」という「力量感があるドラフト音(蒸気排気音)がたまらない魅力」だと力を込める木村喜郎さん。

 木村さんが小学生の頃の冬、小千谷の発電所に勤務する叔父の所にバス乗って遊びに行ったが、帰りは大雪でバスが運休。初めてSLに乗って飯山線下条駅まで来て、下条桑原と旧川西町木落間の信濃川を横断する渡し舟(昭和2年開業)に乗って仁田の自宅まで送ってもらった。また、父親に連れて行ってもらい長岡駅で見たSLと客車の連結場面、転車台に載るSLを見て機能美とたくましさに魅了された。中学生の頃にはアルコールランプを使った蒸気機関を回し、蒸気の力を動力に変える仕組みに興味を持った。そして高校生になると通学用にバイクを買ってもらい、叔父から貰ったカメラを積んで長野方面まで出掛けてSLを撮影した。

 木村さんは本物のSLを運転した経験がある。仕事上の知人から「SLを運転してみないかね」と誘いを受け、平成22年(2010)から休みを利用し北海道の三笠鉄道村へ。4年間をかけて施設内で42回の体験運転を行った。「自動車はキーを差し込んで回せばエンジンがかかり走らせられる。SLは走る前にボイラーに火を入れ石炭を焚き、蒸気を上げ1〜2時間をかけて車体を暖め動かせる状態にする」。さらに「SLはその都度車体温度と蒸気、圧力の状態が違う。機関士になるには車体整備から機関助手(釜焚き)を経なければ出来ない事がよく分かった」と言う。

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 昭和7年(1932)に大型SLが走ることができない地方路線向けに比較的小型軽量で航続距離が長いC56形が開発され、昭和10年(1935)から17年(1942)の間、日立製作所や三菱重工業などで165両が製造された。

 C56のCは、車体前方下部のピストンから後方に伸びた連結棒で三つの動輪を回すことを表し、デゴイチの愛称で呼ばれるD51のDは四つの動輪を回す車両を表す。C56は比較的小型というが全長約14㍍で重量約37㌧もある堂々とした姿。「D51は北海道などの平原に向き、C56はカーブや坂道が多い十日町を含む中魚沼や長野県に向いた車両だった」と語る。

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 飯山線の前身、鉄道省敷設の十日町線は93年前の昭和2年(1927)11月15日、越後川口〜十日町間が開通。開業当日は誘致運動の関係者、十日町町民など約1千人が出迎えるなか、午前7時41分に第1号の列車が十日町停車場(現十日町駅)に乗り入れた。地上からは花火が打ち上げられ、空からは朝日新聞の飛行機が祝賀ビラをまく。児童生徒は日中に旗行列、町民は夜に提灯行列を行い町は喜びに沸き立つ。列車は1日6往復し、地域経済発展に貢献した。当時、着物産業は戦前の隆盛期に向っており「織物という鬼に鉄道という金棒を得た」と開通に大きな期待を寄せた言葉が記録に残る。さらに長野、津南方面では飯山住民設立の飯山鉄道株式会社が路線を延伸し、外丸と鹿渡、田沢を経て4年9月に十日町停車場まで接続し、現在の飯山線区間が全通した。

 地域の流通を担い、住民や学生の足として親しまれたC56だが、飯山線のSLの廃止が決まるとディーゼル車が客を乗せ、SLは貨物を曳いていた。貨物用のディーゼル機関車DD16形が飯山線に配車され、昭和47年(1972)10月2日のダイヤ改正でSLは姿を消した。

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 平成24年(2012)11月10日と11日、40年ぶりに飯山線を「SL信濃川ロマン号」が走り、全国からSLファンが押し寄せた。かつて木村さんが降り立ち、旧川西町の橘地区と上野地区を渡し舟で結んだ運輸の拠点・下条駅には川西の地酒「松乃井」の樽酒が置かれて乗客に振る舞い、地元民謡の新保広大寺節で歓迎した。出発時の甲高く哀愁がある汽笛、勢いよく噴き上がる黒煙と蒸気に「お〜っ」というどよめきが起きた。

 同月3日から5回試運転が行われ、下条駅では児童生徒、園児が見学。機関士がスコップで黒光りする石炭を持ってきて子どもたちにプレゼントし、住民と気軽に記念撮影に応じる姿が見られた。

 飯山線SL運行を応援する市民の会の会長を務めた木村さんは「SLは栃木県の真岡鐵道所有のC11形で、当時飯山線を臨時で走ったこともある車両。SL運行は中高年には懐かしさを、若者や子どもには新鮮さを与え、支線と沿線の魅力を発信する大きな手段だった」と話していた。

(2020年5月16日号掲載)

庚申塔と靑面金剛像の背後に立てられた御柱

公民館前で横たえた御柱に向かって神事が行われる

御柱は年男が担ぎ、女が引いて渡御が始まる

60年に一度の庚申還暦記念祭

住民総出の祭事を写真に残す(昭和55年10月)

木村喜郎さん(昭和25年生れ・十日町市川西地区仁田)

 「天災避除」「五穀豊穣」「家門繁栄」「子孫長久」などを願い、今から40年前の昭和55年(1980)10月12日、旧川西町の仁田地区で60年に一度の「庚申(こうしん)大神還暦記念祭」が行われた。写真は同地区に住む木村喜郎さんが撮影したもの。

 庚申の日は年に6回ある。中国の伝説では庚申の夜、人が寝ている間に体内にいる三尸の虫(さんしのむし)が逃げ出し、その人の罪を天帝に告げるという。そのため虫が逃げ出さないよう徹夜する風習があった。これが平安時代に日本に伝わり、貴族は徹夜で詩歌管弦の遊びをし、時代が下がると武家の間でも行われ庶民にも広まる。やがて風習は民間信仰となり豊作や福運を祈った。信者が集まる庚申講ができ、江戸初期になると庚申塔の建立が広く行われるようになる。庶民も三尸の虫に告げ口されないよう夜通し飲んで食べて騒いだという。娯楽の少ない昔は楽しみの一つだった。

 十日町市博物館脇の郷土植物園に昭和55年に建立した庚申塔(石塔)あり、同博物館友の会が庚申の祭事を伝承しようと毎年5月に花や米、菓子、果物などを供えて庚申供養を行っている。友の会の会員は「かつては市内の多くの集落で講が行われていた」と話していた。

 木村さんは仁田地区で年中行事として庚申講が行われた記憶はなく、庚申祭の役員を務めた大正9年(申年)生れの父、哲夫さんが講に出掛けた覚えも無いと言う。同地区ではかなり前に講は途絶えたと思われる。

 木村さんは前日の11日から撮影を始めた。仁田公民館の広間には庚申祭で必要だという「猿田彦大神」と「庚申靑面金剛(しょうめんこんごう)」の掛軸二幅が下げられ、黒板には公民館前での御柱(おんばしら)への神事、御神酒頂戴、次いで渡御(とぎょ=御柱や神輿が進むこと)を行い、庚申塔が立つ熊野神社でも神事、続いて御柱を立てる立塔、除幕、祝詞奏上、玉串奉典、一同拝礼と当日の式次第が書かれ、それも写していた。

 また、御柱脇に埋められるタイムカプセルに入れた物も撮影した。料理屋が折詰めを包む時に使うビニール風呂敷に地区内144戸の世帯主の名前を、さらに申年である明治29年(1896)から昭和55年生れの住民46人の名前がマジックで記してあり、各戸がひと言ずつ書いた紙も入れた。それらを塩ビ製水道管に収め両端を密封した長さ60㌢程のカプセルも写っている。

 庚申祭当日の午前中は小雨模様。公民館前に長さ3㍍程の御柱が白布に包まれ横にした状態で台の上に置かれ、金の御幣(ごへい)が立てられていた。その周囲にはオレンジ色の祭ばんてんを着た年男、年女が取り囲み、橘小学校の教員だった長谷川宮司が神事を行う。御神酒をいただいた後は、申年生れの年配者5人が先導して渡御が始まる。その後ろには3㍍程の角材に太鼓を吊るし宮司が太鼓を叩く。その次には地元川西の酒「松乃井」の菰被(こもかぶり)の樽酒には2本の角材が取付られて子どもたちが担いで進む。五色絹が取り懸けられた真榊(まさかき)の竿を持った女の子が御柱の前を歩き、御柱の先端に付けた紅白の綱は年女が曳き、御柱は年男が担いだ。

 神社での神事が終わると年男たちが庚申塔の背後に御柱を立て、白布を除幕すると白木の角柱正面には「齋御庚申大神還暦記念祭祈祷御柱」と黒々と墨書されていた。御柱の後ろにはタイムカプセルを収めるコンクリート製の升が地中に埋められており、タイムカプセルと共に記念祭で供えられた酒2升も収めた。30㌢四方程のコンクリートの蓋には「一九八〇庚申年 昭和五十五年十月十二日吉日 庚申祭 全戸一四四戸盛大に行う」と釘のようなもので刻まれていた。

 神社西側にある庚申塔の左右には石像が立っているが、下条の中川久男宮司に現地で見てもらったところ「左側は公民館に下げていた掛軸と同じ靑面金剛。右側も靑面金剛と似た姿をしているが蓮の台座の上に立っており、江戸時代以前の神仏混淆の影響もあるようで、どういうものなのか判然としない。庚申祭は60年ごとなので、一つが先に建立され、それ以降にもう一つが建立されたのかもしれない」と推測した。中央の庚申塔は大正9年(1920)建立で庚申祭の年に当たる。

 公民館から神社の距離は約400㍍だが「渡御では多くの住民が御柱の後に続き、沿道でも住民が見守っていた。文章による記録も大事だが、写真はひと目で当時の記憶がよみがえる。また、亡くなった人、建替えられたり無くなった家、昔の農具などが写り込んでいて、当時の地区内や時代をうかがうことができる」と話していた。

 御柱は長年の風雪で朽ちて抜かれ、今は半分程の長さになり神社裏手に置かれている。「長い歳月で代も替わり、何の角材だかは分からなくなっている。いずれはきれいにして保存したい」と語る。20年後の2040年、庚申の年にタイムカプセルは掘り起こされる。

(2020年5月9日号掲載)

制服自由化の試着期間で「どてら」を着て登校する強者の生徒もいた(昭和48年2月)

制服自由化初年度の女子生徒。ジーパンにセーターが多かった(昭和48年秋)

グレーの服が千鳥格子の『推薦服』。推薦服と私服が混在した時期(昭和53年頃)

津南高校、9年間の制服自由化

大塚与四次さん(昭和24年生れ・津南町大割野)

(2020年5月2日号掲載)

 『学生といえば制服』という認識は根強く、私服で登校できる高校は妻有地域で現在はない。だが昭和48年〜昭和56年の9年間、津南高校(平成20年・2008年閉校)では、制服が自由だった期間があった。上の抑圧からの自由を学生も教職員も求めた時代。その現場に、昭和43年に津南高卒業後、理科の実務教員として同高勤務となった大塚さんもいた。「生徒も教員も、学校を変えようと言う熱気があった」と振り返る。

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 ひとつのきっかけが、昭和44年に始まる『津南高問題』。宿直室のシーツが全員共用では不衛生、女子トイレに鏡設置などと言った、職場環境改善を求める教職員の声に端を発し、学校運営に教職員の意見が反映されないという要求などあるなか、学校民主化運動に発展。マラソン大会や創立20周年記念式典など学校行事も中止となり生徒を巻き込む事態となり、結果的に当時の校長が更迭されるなど、組合運動とも重なり県教育界を巻き込んだ問題となった。

 その流れのなか、制帽の廃止、女子の丸首セーター許可など、生徒を縛る校則の緩和が進むなか、昭和47年2月に生徒会指導部より『服装の規則は個人の個性、自主性を発揮させる上で妨げになる』と声が上がった。「生徒たちから制服の自由化を求める声が上がっていた。それを受け、職員もその声をしっかり受け止め職員会議でかなり揉んだ」。同年秋には生徒会より『文化祭の服装は自由に』という要望があり、文化祭3日間の服装自由化を職員会議で承認。さらに同年に服装自由の試着期間を設けたのち、翌昭和48年4月から制服自由化が始まった。当時、制服を廃止したのは高田高(昭和46年)、長岡高(昭和47年)など数えるほどで、津南高も自由化を決めた先駆的な学校のひとつだった。「制服を決めたのは教員。その枷を外してやるのも教員の仕事という動きとなり、制服を止めようという話に繋がっていった。やっぱり反対意見もいっぱいあったが、それでも職員会議を重ね、決断したのを覚えているよ」。

 ただ服装は自由になったが、その中で学生服を選ぶ生徒も多かった。「男子は中学の詰襟制服をそのまま着る者も多かったが、時には私服と使い分けたりする者も多かったかな」。中には、写真にあるような私服にどてら(丹前)姿で登校し授業を受ける、強者の高校生の姿も。「ただあまりにも学校に着て来るのにふさわしくない服装の生徒には止めて欲しいと注意を出した。我々若い世代の教職員は寛容だったけど、当時の年配の先生はやっぱり気になって仕方ないものだったから」。一方、女子生徒は「ジーパンにセーターが多かったが、中にはジャケットを着ている者もいた。ただ、私服でスカートを着ている子は当初はほとんどいなかったかな」。

 だが急速な自由化であり、私服の生徒を見た地域住民から『服装が見苦しい』という苦情、地区PTAからの『制服を決めてほしい』という声は常にあり、やがて職員の中からも行き過ぎた自由化への批判が強まる。昭和53年度から男女とも学校『推薦服』を指定する形となった。男子は黒の学生服、女子は黒と白の千鳥格子の布を使用したブレザー・スカート・ベストを組み合わせたもの。「千鳥格子の制服は評判はあまり良くなかった。だから女子生徒は自分で選んだブレザーやスカートを着ているものの方が多かった」。写真の女子生徒の集合写真は、千鳥格子の推薦服と、自分で選んだ私服の生徒が混在する、当時の様子が伺える一枚だ。

 やがて『制服』を求める声は保護者だけでなく生徒からも高まり、昭和56年3月末で生徒の服装自由化は終わりを告げた。その9年間を振り返ると「今、当時の生徒は50代後半から60代前半が制服自由化の世代。自由化は、生徒も教員も一緒になって動いた結果で、お互い信頼感があり学校を良くしていこう、という思いがあった」。大塚さんは当時の教職員の議論の中で『子どもたちを人間として見なきゃいけない。機械じゃない。俺たちは人間を作るんだ』との言葉がよく出ていたのを覚えている。「生徒全員が百点満点を取るのではなく、生きていく力を作らなきゃいけないと当時の若い教員は強く思っていた。今も『生き抜く力』が求められているから、現代と通じる部分もあるよね」。その後、制服は再び当たり前となり、むしろ『制服が可愛いからあの高校に進学しよう』という流れが全国で生まれた。生徒も教員も、自由を求めた時代の記憶は、遠くなりつつある。

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