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昭和の​アルバム

シリーズ連載

国道117号線には荷車の行列ができた

下條駅通りの倉庫脇で検査を待つ

地元の農業振興に努めた農協

俵で運んだ米出しの風景(昭和32〜33年)

十日町市下条 村山兼太郎さん(昭和13年生まれ)

 昭和12年(1937)の日中戦争から日本は戦時体制に入り、産業組合等は自主的な運営は失われていき、肥料の一元的配給、米の一元集荷機関などとなっていく。大戦末期の昭和19年(1944)には農会、産業組合、養蚕組合、畜産組合などが統合した農業会が発足。これは戦争のための国策機関で、中魚沼郡農会は県農業会中魚沼郡支部となった。農家は農業会に強制加入させられ退会も認められなかった。

 昭和20年の敗戦後、連合国最高司令官総司令部は農村の民主化政策の一環で、戦争協力団体の農業会の解散と農地改革を農村に対する二大占領政策とし「農業共同組合法の公布に伴う農業団体の整理等に関する法律」により農業会は23年(1948)に解散。農民のための民主的組合として同年、中魚沼郡内の農業協同組合は中條村が先頭を切り設立。その後、市内では十日町、水沢など計10組合が認可された。

    ◇◇◇ 

 旧下條村(現十日町市下条地区)の農業会は国道117号線沿いの現下条公民館から北へ70㍍程の場所にあった。下條農協も23年に設立。現公民館の位置に作業場、国道を挟んだ向かい(現Aコープ下条店の位置)に購買店舗と事務所、そこに隣接する下條駅付近には籾(もみ)倉庫、土蔵倉庫(昭和37年頃には鉄筋造の準低温倉庫に建替え)が建てられ順次施設を充実させていった。下條農協は貨車引込線がある駅を大いに活用し、米などを東京、名古屋、大阪方面に出荷し、肥料や飼料等、必要な物資を運び入れた。元下條農協職員だった村山兼太郎さんは「国道と駅が近く良い立地だった」と言う。

    ◇◇◇

 当時、下條は市内の畜産の中心地で豚に牛、ヤギ、ニワトリと種類は多く、村山さんは畜産係を25年間担当。「小さい農協なのでなんでもやった。家畜の人工授精から米や野菜の営農指導もし、繭もあったのでとにかく忙しかった」と振り返る。

 写真は昭和32〜33年頃(1957〜58)の10月に村山さんが撮影した下條の米出し風景。農家は冬仕事に手間をかけて藁を編み俵を作る。秋にはそれに米を詰め荷車に載せて農協に出荷。俵の数が多い農家は1回農協に降ろしてから自宅に戻り再度積んできた。山間部の農家は荷車を牛や馬に曳かせる。奥地の集落は農協まで5㌔以上もあり、山坂を超える運搬は容易でなかった。

 朝は早いと4〜5時頃から米出しが来て、村山さんたち職員はそれに合わせ薄暗いうちに出勤。受付では票箋(ひょうせん=荷札)を貰い住所と名前を書いて俵に付ける。米の品質検査には新潟食糧事務所の検査官が来るが二人だけなので数百㍍もの荷車の行列ができた。検査官は刺(さし)を俵に突き刺して米を少量抜き取り明るい所で光を当てて検査する。検査が終わると1等、2等などのハンコが俵に押され倉庫に積み上げた。多い日には8百〜1千俵も運び込まれ、年によって違うが下條全体で8千〜1万俵の米が集まった。

 1俵に約66〜67㌔の米が入っており、二人が俵の左右を持ち上げて、一人がその下に肩を入れて担ぐ。幅40〜50㌢程の足場板をスロープにして、等級のハンコが見えるように俵を15段ぐらいに積み上げる。「男の職員は総出だが、それでも足りず集落に割り当てで人夫を出してもらった。重労働だが嫌だなどと言わずに来てくれ、ありがたかった」。そして「等級の1〜3等はいいが、4等以下はがくんと値段が下がってしまい気の毒な人もいた」と語る。

 大昔から使われてきた俵だが、40年代に入ると麻袋に変わっていった。

    ◇◇◇

 設立当初の10組合は集約され昭和30年代には8組合となっており、36年には高度経済成長に対応した「農業協同組合合併助成法」が施行され農協を整備強化する動きが進む。市内の十日町(組合員758人・職員13人)、中条(1477人・40人)、下条(933人・17人)、吉田(408人・13人)、南部(489人・19人)、六箇(239人・4人)、川治(637人・17人)、水沢(791人・21人)という規模の8組合が56年前の昭和39年(1964)8月1日に合併して「十日町市農業協同組合」が発足。豪雪山間地の農業振興を図った。

(2020年5月23日号掲載)

検査官が検査し米の等級を付ける

倉庫に15段ほど俵を積み上げた

上部ネットはトンネル内でのツララ切りで運転手を怪我から守る

40年ぶりの運行で人々があふれた下条駅

片側三つの動輪を持つC56形機関車

沿線住民の心に残る蒸気機関車

地域の運輸を担ったC56形(昭和40年年代)

木村喜郎さん(昭和25年生れ・十日町市川西地区仁田)

 かつて飯山線の南北を駆け抜けた国鉄C56形蒸気機関車(SL)。「シュッシュッポッポ、シュッシュッポッポ」という「力量感があるドラフト音(蒸気排気音)がたまらない魅力」だと力を込める木村喜郎さん。

 木村さんが小学生の頃の冬、小千谷の発電所に勤務する叔父の所にバス乗って遊びに行ったが、帰りは大雪でバスが運休。初めてSLに乗って飯山線下条駅まで来て、下条桑原と旧川西町木落間の信濃川を横断する渡し舟(昭和2年開業)に乗って仁田の自宅まで送ってもらった。また、父親に連れて行ってもらい長岡駅で見たSLと客車の連結場面、転車台に載るSLを見て機能美とたくましさに魅了された。中学生の頃にはアルコールランプを使った蒸気機関を回し、蒸気の力を動力に変える仕組みに興味を持った。そして高校生になると通学用にバイクを買ってもらい、叔父から貰ったカメラを積んで長野方面まで出掛けてSLを撮影した。

 木村さんは本物のSLを運転した経験がある。仕事上の知人から「SLを運転してみないかね」と誘いを受け、平成22年(2010)から休みを利用し北海道の三笠鉄道村へ。4年間をかけて施設内で42回の体験運転を行った。「自動車はキーを差し込んで回せばエンジンがかかり走らせられる。SLは走る前にボイラーに火を入れ石炭を焚き、蒸気を上げ1〜2時間をかけて車体を暖め動かせる状態にする」。さらに「SLはその都度車体温度と蒸気、圧力の状態が違う。機関士になるには車体整備から機関助手(釜焚き)を経なければ出来ない事がよく分かった」と言う。

    ◇◇◇◇◇

 昭和7年(1932)に大型SLが走ることができない地方路線向けに比較的小型軽量で航続距離が長いC56形が開発され、昭和10年(1935)から17年(1942)の間、日立製作所や三菱重工業などで165両が製造された。

 C56のCは、車体前方下部のピストンから後方に伸びた連結棒で三つの動輪を回すことを表し、デゴイチの愛称で呼ばれるD51のDは四つの動輪を回す車両を表す。C56は比較的小型というが全長約14㍍で重量約37㌧もある堂々とした姿。「D51は北海道などの平原に向き、C56はカーブや坂道が多い十日町を含む中魚沼や長野県に向いた車両だった」と語る。

    ◇◇◇◇◇

 飯山線の前身、鉄道省敷設の十日町線は93年前の昭和2年(1927)11月15日、越後川口〜十日町間が開通。開業当日は誘致運動の関係者、十日町町民など約1千人が出迎えるなか、午前7時41分に第1号の列車が十日町停車場(現十日町駅)に乗り入れた。地上からは花火が打ち上げられ、空からは朝日新聞の飛行機が祝賀ビラをまく。児童生徒は日中に旗行列、町民は夜に提灯行列を行い町は喜びに沸き立つ。列車は1日6往復し、地域経済発展に貢献した。当時、着物産業は戦前の隆盛期に向っており「織物という鬼に鉄道という金棒を得た」と開通に大きな期待を寄せた言葉が記録に残る。さらに長野、津南方面では飯山住民設立の飯山鉄道株式会社が路線を延伸し、外丸と鹿渡、田沢を経て4年9月に十日町停車場まで接続し、現在の飯山線区間が全通した。

 地域の流通を担い、住民や学生の足として親しまれたC56だが、飯山線のSLの廃止が決まるとディーゼル車が客を乗せ、SLは貨物を曳いていた。貨物用のディーゼル機関車DD16形が飯山線に配車され、昭和47年(1972)10月2日のダイヤ改正でSLは姿を消した。

    ◇◇◇◇◇

 平成24年(2012)11月10日と11日、40年ぶりに飯山線を「SL信濃川ロマン号」が走り、全国からSLファンが押し寄せた。かつて木村さんが降り立ち、旧川西町の橘地区と上野地区を渡し舟で結んだ運輸の拠点・下条駅には川西の地酒「松乃井」の樽酒が置かれて乗客に振る舞い、地元民謡の新保広大寺節で歓迎した。出発時の甲高く哀愁がある汽笛、勢いよく噴き上がる黒煙と蒸気に「お〜っ」というどよめきが起きた。

 同月3日から5回試運転が行われ、下条駅では児童生徒、園児が見学。機関士がスコップで黒光りする石炭を持ってきて子どもたちにプレゼントし、住民と気軽に記念撮影に応じる姿が見られた。

 飯山線SL運行を応援する市民の会の会長を務めた木村さんは「SLは栃木県の真岡鐵道所有のC11形で、当時飯山線を臨時で走ったこともある車両。SL運行は中高年には懐かしさを、若者や子どもには新鮮さを与え、支線と沿線の魅力を発信する大きな手段だった」と話していた。

(2020年5月16日号掲載)

庚申塔と靑面金剛像の背後に立てられた御柱

公民館前で横たえた御柱に向かって神事が行われる

御柱は年男が担ぎ、女が引いて渡御が始まる

60年に一度の庚申還暦記念祭

住民総出の祭事を写真に残す(昭和55年10月)

木村喜郎さん(昭和25年生れ・十日町市川西地区仁田)

 「天災避除」「五穀豊穣」「家門繁栄」「子孫長久」などを願い、今から40年前の昭和55年(1980)10月12日、旧川西町の仁田地区で60年に一度の「庚申(こうしん)大神還暦記念祭」が行われた。写真は同地区に住む木村喜郎さんが撮影したもの。

 庚申の日は年に6回ある。中国の伝説では庚申の夜、人が寝ている間に体内にいる三尸の虫(さんしのむし)が逃げ出し、その人の罪を天帝に告げるという。そのため虫が逃げ出さないよう徹夜する風習があった。これが平安時代に日本に伝わり、貴族は徹夜で詩歌管弦の遊びをし、時代が下がると武家の間でも行われ庶民にも広まる。やがて風習は民間信仰となり豊作や福運を祈った。信者が集まる庚申講ができ、江戸初期になると庚申塔の建立が広く行われるようになる。庶民も三尸の虫に告げ口されないよう夜通し飲んで食べて騒いだという。娯楽の少ない昔は楽しみの一つだった。

 十日町市博物館脇の郷土植物園に昭和55年に建立した庚申塔(石塔)あり、同博物館友の会が庚申の祭事を伝承しようと毎年5月に花や米、菓子、果物などを供えて庚申供養を行っている。友の会の会員は「かつては市内の多くの集落で講が行われていた」と話していた。

 木村さんは仁田地区で年中行事として庚申講が行われた記憶はなく、庚申祭の役員を務めた大正9年(申年)生れの父、哲夫さんが講に出掛けた覚えも無いと言う。同地区ではかなり前に講は途絶えたと思われる。

 木村さんは前日の11日から撮影を始めた。仁田公民館の広間には庚申祭で必要だという「猿田彦大神」と「庚申靑面金剛(しょうめんこんごう)」の掛軸二幅が下げられ、黒板には公民館前での御柱(おんばしら)への神事、御神酒頂戴、次いで渡御(とぎょ=御柱や神輿が進むこと)を行い、庚申塔が立つ熊野神社でも神事、続いて御柱を立てる立塔、除幕、祝詞奏上、玉串奉典、一同拝礼と当日の式次第が書かれ、それも写していた。

 また、御柱脇に埋められるタイムカプセルに入れた物も撮影した。料理屋が折詰めを包む時に使うビニール風呂敷に地区内144戸の世帯主の名前を、さらに申年である明治29年(1896)から昭和55年生れの住民46人の名前がマジックで記してあり、各戸がひと言ずつ書いた紙も入れた。それらを塩ビ製水道管に収め両端を密封した長さ60㌢程のカプセルも写っている。

 庚申祭当日の午前中は小雨模様。公民館前に長さ3㍍程の御柱が白布に包まれ横にした状態で台の上に置かれ、金の御幣(ごへい)が立てられていた。その周囲にはオレンジ色の祭ばんてんを着た年男、年女が取り囲み、橘小学校の教員だった長谷川宮司が神事を行う。御神酒をいただいた後は、申年生れの年配者5人が先導して渡御が始まる。その後ろには3㍍程の角材に太鼓を吊るし宮司が太鼓を叩く。その次には地元川西の酒「松乃井」の菰被(こもかぶり)の樽酒には2本の角材が取付られて子どもたちが担いで進む。五色絹が取り懸けられた真榊(まさかき)の竿を持った女の子が御柱の前を歩き、御柱の先端に付けた紅白の綱は年女が曳き、御柱は年男が担いだ。

 神社での神事が終わると年男たちが庚申塔の背後に御柱を立て、白布を除幕すると白木の角柱正面には「齋御庚申大神還暦記念祭祈祷御柱」と黒々と墨書されていた。御柱の後ろにはタイムカプセルを収めるコンクリート製の升が地中に埋められており、タイムカプセルと共に記念祭で供えられた酒2升も収めた。30㌢四方程のコンクリートの蓋には「一九八〇庚申年 昭和五十五年十月十二日吉日 庚申祭 全戸一四四戸盛大に行う」と釘のようなもので刻まれていた。

 神社西側にある庚申塔の左右には石像が立っているが、下条の中川久男宮司に現地で見てもらったところ「左側は公民館に下げていた掛軸と同じ靑面金剛。右側も靑面金剛と似た姿をしているが蓮の台座の上に立っており、江戸時代以前の神仏混淆の影響もあるようで、どういうものなのか判然としない。庚申祭は60年ごとなので、一つが先に建立され、それ以降にもう一つが建立されたのかもしれない」と推測した。中央の庚申塔は大正9年(1920)建立で庚申祭の年に当たる。

 公民館から神社の距離は約400㍍だが「渡御では多くの住民が御柱の後に続き、沿道でも住民が見守っていた。文章による記録も大事だが、写真はひと目で当時の記憶がよみがえる。また、亡くなった人、建替えられたり無くなった家、昔の農具などが写り込んでいて、当時の地区内や時代をうかがうことができる」と話していた。

 御柱は長年の風雪で朽ちて抜かれ、今は半分程の長さになり神社裏手に置かれている。「長い歳月で代も替わり、何の角材だかは分からなくなっている。いずれはきれいにして保存したい」と語る。20年後の2040年、庚申の年にタイムカプセルは掘り起こされる。

(2020年5月9日号掲載)

制服自由化の試着期間で「どてら」を着て登校する強者の生徒もいた(昭和48年2月)

制服自由化初年度の女子生徒。ジーパンにセーターが多かった(昭和48年秋)

グレーの服が千鳥格子の『推薦服』。推薦服と私服が混在した時期(昭和53年頃)

津南高校、9年間の制服自由化

大塚与四次さん(昭和24年生れ・津南町大割野)

(2020年5月2日号掲載)

 『学生といえば制服』という認識は根強く、私服で登校できる高校は妻有地域で現在はない。だが昭和48年〜昭和56年の9年間、津南高校(平成20年・2008年閉校)では、制服が自由だった期間があった。上の抑圧からの自由を学生も教職員も求めた時代。その現場に、昭和43年に津南高卒業後、理科の実務教員として同高勤務となった大塚さんもいた。「生徒も教員も、学校を変えようと言う熱気があった」と振り返る。

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 ひとつのきっかけが、昭和44年に始まる『津南高問題』。宿直室のシーツが全員共用では不衛生、女子トイレに鏡設置などと言った、職場環境改善を求める教職員の声に端を発し、学校運営に教職員の意見が反映されないという要求などあるなか、学校民主化運動に発展。マラソン大会や創立20周年記念式典など学校行事も中止となり生徒を巻き込む事態となり、結果的に当時の校長が更迭されるなど、組合運動とも重なり県教育界を巻き込んだ問題となった。

 その流れのなか、制帽の廃止、女子の丸首セーター許可など、生徒を縛る校則の緩和が進むなか、昭和47年2月に生徒会指導部より『服装の規則は個人の個性、自主性を発揮させる上で妨げになる』と声が上がった。「生徒たちから制服の自由化を求める声が上がっていた。それを受け、職員もその声をしっかり受け止め職員会議でかなり揉んだ」。同年秋には生徒会より『文化祭の服装は自由に』という要望があり、文化祭3日間の服装自由化を職員会議で承認。さらに同年に服装自由の試着期間を設けたのち、翌昭和48年4月から制服自由化が始まった。当時、制服を廃止したのは高田高(昭和46年)、長岡高(昭和47年)など数えるほどで、津南高も自由化を決めた先駆的な学校のひとつだった。「制服を決めたのは教員。その枷を外してやるのも教員の仕事という動きとなり、制服を止めようという話に繋がっていった。やっぱり反対意見もいっぱいあったが、それでも職員会議を重ね、決断したのを覚えているよ」。

 ただ服装は自由になったが、その中で学生服を選ぶ生徒も多かった。「男子は中学の詰襟制服をそのまま着る者も多かったが、時には私服と使い分けたりする者も多かったかな」。中には、写真にあるような私服にどてら(丹前)姿で登校し授業を受ける、強者の高校生の姿も。「ただあまりにも学校に着て来るのにふさわしくない服装の生徒には止めて欲しいと注意を出した。我々若い世代の教職員は寛容だったけど、当時の年配の先生はやっぱり気になって仕方ないものだったから」。一方、女子生徒は「ジーパンにセーターが多かったが、中にはジャケットを着ている者もいた。ただ、私服でスカートを着ている子は当初はほとんどいなかったかな」。

 だが急速な自由化であり、私服の生徒を見た地域住民から『服装が見苦しい』という苦情、地区PTAからの『制服を決めてほしい』という声は常にあり、やがて職員の中からも行き過ぎた自由化への批判が強まる。昭和53年度から男女とも学校『推薦服』を指定する形となった。男子は黒の学生服、女子は黒と白の千鳥格子の布を使用したブレザー・スカート・ベストを組み合わせたもの。「千鳥格子の制服は評判はあまり良くなかった。だから女子生徒は自分で選んだブレザーやスカートを着ているものの方が多かった」。写真の女子生徒の集合写真は、千鳥格子の推薦服と、自分で選んだ私服の生徒が混在する、当時の様子が伺える一枚だ。

 やがて『制服』を求める声は保護者だけでなく生徒からも高まり、昭和56年3月末で生徒の服装自由化は終わりを告げた。その9年間を振り返ると「今、当時の生徒は50代後半から60代前半が制服自由化の世代。自由化は、生徒も教員も一緒になって動いた結果で、お互い信頼感があり学校を良くしていこう、という思いがあった」。大塚さんは当時の教職員の議論の中で『子どもたちを人間として見なきゃいけない。機械じゃない。俺たちは人間を作るんだ』との言葉がよく出ていたのを覚えている。「生徒全員が百点満点を取るのではなく、生きていく力を作らなきゃいけないと当時の若い教員は強く思っていた。今も『生き抜く力』が求められているから、現代と通じる部分もあるよね」。その後、制服は再び当たり前となり、むしろ『制服が可愛いからあの高校に進学しよう』という流れが全国で生まれた。生徒も教員も、自由を求めた時代の記憶は、遠くなりつつある。

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