昭和の​アルバム

昭和のアルバム

シリーズ連載

第6回商工祭の山車 十日町専門店会のせんもん丸

(昭和29年7月16日)

十日町市博物館所蔵/山内写真館資料

十日町市高田町1 柳 光政(昭和19年生れ)

 昭和15年(1940)7月7日の奢侈品等製造販売制限規則(贅沢禁止令)の七・七禁令により、絹織物産地の十日町は壊滅的打撃を受け、敗戦後の24年(1949)に占領軍の生糸と絹織物生産凍結が撤廃されて本格的な産地復興が始まった。

 当時町制だった十日町は、町の予算を付けて商工業振興目的の「十日町商工祭」を同年7月に5日間行い、戦後初の秋冬織物求評会も共催された。写真の29年(1954)には十日町、中条、川治、六箇が合併して市制を施行。同年の第6回商工祭の主催は26年(1951)に設立した十日町商工会議所に変わっており、7月13日〜17日の期間中は全商店による大売出しや、後に市長となる春日由三NHK放送局長斡旋の演芸大会、山車と仮装、万灯、素人のど自慢などが盛大に行われた。

 写真の山車は十日町専門店会(丸専)が作った全長約9㍍の「せんもん丸」。中条出身の写真の大家、岡田紅陽の協力で女性モデル2人とギター奏者、歌手が乗って祭りに華やかさを添えた。右上には柳庄百貨店の看板が写るが、現ヤナショウの柳光政さんは「祭りだけではなく、当時は丸専と十日町商店連盟が町と商売を盛り立てようと切磋琢磨していた。写真は私が子どもの頃だが人が出て大賑わいだったことを覚えている。丸専理事長には小島本店と十日町新聞の社長、写真を撮った山内写真館の与喜男さんも務めた。丸専では島倉千代子、三波春夫、フランク永井など一流歌手を呼び歌謡ショーも行っていた」と振り返る。

(2020年10月31日号掲載)

完成したばかりの十日町実業高校の校舎(昭和41年)

十日町市川西地区仁田 木村 義郎さん(昭和25年生れ)

 写真は昭和41年(1966)に木村喜郎さんが撮影。外構工事も行われていない出来上がったばかりの十日町実業高校(現十日町総合高校)の校舎で「校舎と共にグラウンドも造成し、体育の時間は石拾いばかりしていた」と言う。

 実業高校の創立までは様々な経緯があった。写真の校舎になる前は木造3階建の建物で、敗戦のわずか1年前の昭和19年(1944)に完成した「産業報国工民修練道場」を利用。厳しい戦局を乗り切ろうと国民精神作興や産業報国が強調され、道場は十日町の工員の生産意欲を向上させ、報国精神と肉体錬成の場として建てられた。敗戦後の22年(1947)に十日町高等女学校が道場に移転し、25年には十日町高校と統合して「西校舎」の呼び名で農業科と家庭科、普通科が設置され、産業教育振興の機運の高まりと地域要望で1校2校舎制を廃し、37年(1962)に西校舎は実業高校として開校した。木村さんは40年に3階建校舎に入学。当時は農業、紡織、色染化学、家政、被服科があり「ちょうど校舎建替え時期に入学したが、実業はそれぞれの科に教室が必要で、あちこちに教室棟が建てられ3階建に渡り廊下で結ばれていた。新校舎に入ってみると非常にきれい。端から端まで一本廊下で見通せてすごいと思った。建て増しの木造校舎では見られない光景だった」と語る。

(2020年10月24日号掲載)

金属類の供出と七・七禁令で壊滅的打撃を受けた十日町産地(昭和15年~16年)

十日町市博物館所蔵写真

十日町市本町東1 瀧澤 榮輔さん(大正13年生れ)

 満州事変の昭和6年(1931)から20年(1945)の敗戦まで、十日町も横暴な国策に翻弄された。

 日中戦争に日米戦争と戦局は悪化して政府は資源不足を補うため国内の金属類を回収し、国民は鍋や釜まで供出した。写真は原町(現本町1丁目)の機屋(はたや)滝文の織機を運び出しているところで昭和15~16年(1940~1941)の様子。

 15年7月7日には奢侈品等製造販売制限規則(贅沢禁止令)が施行。日付から七・七禁令と言われたが、平和産業である絹織物産地の十日町は壊滅的打撃を受けた。滝文の役員を務めた瀧澤榮輔さんは「供出は鉄製の織機が狙われ、お寺の鐘までとられていった。明石ちぢみ生産で十日町は夏の着物産地としての力を付けたが、冬の着物を作ろうという産地の悲願で地紋を織り込んだ意匠白生地を昭和初頭に開発し、最盛期を迎えた頃に戦争が激化した。七・七禁令で絹織物は生産できなくなったが、それは百姓に田んぼを作るなというようなものだ」と言う。大小の機屋と関連業者は転業か廃業を余儀なくされ十日町は混乱を極めた。

 転業を決めた機屋は軍需衣料の生産か、他の軍需品生産に転換するかに迫られた。滝文は一切の着物生産をやめて鉄工業に転身し、大型の工作機械を必要としない航空機のネジを製造。関芳は落下傘本体やロープなどを作っていた。「戦争に負け、我々が復員してきたら社長が『もう一回機屋になろう』と言った。戦争に苦しめられたが、従業員と一緒に戦後の産地復興に努めた」と語る。

(2020年10月17日号掲載)

旧制十日町中学校(現十日町高校)の生徒による軍事演習(昭和6年)

十日町市博物館所蔵写真

十日町市本町東1 瀧澤 榮輔さん(大正13年生れ)

 昭和6年(1931)の満州事変から20年(1945)の敗戦までの14年間、国民のすべてが戦争に巻き込まれていった。県立十日町中学校(現十日町高校)の開校は大正15年(1926)。中魚沼郡内と近郊から優秀な子どもたちが集まってきたが、生徒は在学中の5年間、兵士としての基礎訓練を受け、若い教員は徴兵され命を落とす者もいた。

 瀧澤榮輔さんは12年(1937)に十日町中に入学し、19年に十日町駅から見送られて出征した。写真は昭和6年撮影で「場所は他の軍事演習も行われた伊達のつつじ原ではないか。写真左上とその右側に抜刀して指揮する兵士がいて、生徒たちは銃口下に着剣して空砲で一斉射撃をしている。小銃は三八式歩兵銃。明治38年(1905)に採用された古い形式の銃で我々も中学校の軍事教練で扱ったが長くて重かった」と振り返る。中学校には陸軍の配属将校と補佐する下士官がいて生徒に軍事教練を指導した。「配属将校は校長より威張っているほど」で、校庭では週1~2回敬礼、気を付け、分列行進などの基本教練を受け、時には外丸村(現津南町)などへ夜間行軍。射撃場は後に雪まつりステージが作られる城ケ丘にあり「実弾射撃は金がかかるため年1~2回程で、的の後ろは弾丸を受け止める盛土がしてあった。訓練はきつかったが将校のかっこいい軍装に憧れもあり、生徒は『いずれは兵士になる。中学の次は予科練か少年航空兵へ』という考えになる。子どもへの教育を誤るといかに怖いものかが分かる」と語った。

(2020年10月10日号掲載)

下条駅を大いに活用した下条農協(昭和30年代)

十日町市下条 村山 兼太郎さん(昭和13年生れ)

 昭和20年(1945)の敗戦後、連合国最高司令官総司令部は農村の民主化政策の一環で、戦争協力団体の農業会を23年(1948)に解散させ、農民のための民主的組合として農業協同組合を設立させた。旧下條村(現下条地区)の下條農協も23年に設立し、現公民館の位置に作業場、国道を挟んだ向かい(現Aコープ下条店)に購買店舗と事務所を、さらに隣接する下條駅近くには籾(もみ)倉庫、土蔵倉庫(昭和37年頃には鉄筋造の準低温倉庫に建替)を建て施設を充実させていった。

 下條農協は貨車引込線がある駅を活用して米などを東京、大阪方面等に出荷し、肥料や飼料等、必要な物資を運び入れた。元下條農協職員の村山兼太郎さんは「国道と駅が近く立地が良かった」と言う。写真は引込線に入れた貨車から配合肥料を線路脇の荷物仮置き場、上屋(うわや)に降ろしているところ。袋を担いだ人の首と袋の間には枕状の肩当が見え、手前の人は麻袋を肩に掛けている。「石灰が入った木箱は50㌔程もあり肩が痛くて肩当をした。カマス(ワラで編んだ袋)に入った荷物は首からワラくずが入るので、その時も肩当をした」と思い起こす。貨物列車が来る時は駅に隣接した丸通合同運送店から農協に連絡が来る。貨車を停めておける時間が短いと農協職員が応援に呼ばれて、丸通の従業員と一緒に荷物の揚げ降ろしをした。下條と川西方面は畜産が盛んで「橘、上野、真人から豚や牛を渡し舟に載せて下條駅まで運んできた。当時は養蚕も盛んで蚕の餌になる桑苗も貨車に載せ出荷した」と語る。

(2020年10月3日号掲載)

長野県の豪雨で破損した貝野橋(昭和34年8月14日)

十日町市博物館所蔵写真  (十日町情報館 齋藤 浩俊)

 昭和34年(1959)8月14日の夕暮れ、雨は降っていないのに、信濃川の水位は突然に増しはじめた。明け方には警戒水位の倍近くにまで達し、各地で堤防が決壊。道や田畑は浸水し、橋は流失した。これは、盆の十日町、中魚沼を襲った10年ぶりの大水害で、台風7号が長野県に豪雨をもたらし、信濃川水系に沿って中・下流域の新潟県へと河水が押し寄せたもの。貝野村(姿)と水沢村(新宮)にまたがる貝野橋も破損した橋の一つ。写真は濁流にもまれる橋の西側、姿方面の様子で、なすすべもなく流れを眺める人々が見える。

 貝野橋株式会社により建設され、開通式は昭和7年(1932年)8月31日。96歳になる姿集落の最長老を先頭に渡り初めが行われた。全長約152㍍、鉄橋部約109㍍、木橋部約43㍍、橋幅は約3.5㍍。宮中ダムなど信濃川発電所工事の本格化を見越し、重量物の運搬にも耐えうる構造であった。当初、地元住人以外は通行料として子ども2銭、大人5銭、馬10銭、車20銭が徴収された。(18年に県道昇格で通行は無料に)川に阻まれて「陸の孤島のようだ」と嘆かれていた貝野村としては、待ち望んだ生命線の開通であった。

 完成後も増水のたび破損を繰り返した貝野橋であるが、34年の決壊後は一部をコンクリート製に改修。42年(1967)秋には名を姿大橋と改めて永久橋として再生し、今も重要な交通網としての役割を担っている。

(2020年9月26日号掲載)

旧原村と十日町村の境界だった榎町(昭和30年頃)

十日町市本町東1 瀧澤榮輔さん(大正13年生れ)

 国道117号線沿い本町1丁目の二見屋菓子店と2丁目の滝長商店の間を入り、東側の山手に向かう170㍍程の通りはかつて「榎町」(えのきちょう)と呼ばれた。榎町は榎川沿いにできた町内で、写真は昭和30年頃(1955頃)に撮影されたもの。写真左側が榎川で、そこ暮らす人々のほのぼのとした様子が写っている。

 瀧澤榮輔さんは自分の町内の歴史を記録しておこうと平成23年に『榎川と榎町の物語』を出版。「榎町は旧原村に含まれ明治29年(1896)に旧十日町村と合併して『十日町』になり、原村は原町と、現在の本町2丁目は一之丁と呼ばれた。昭和29年(1954)の市町村合併で原町は本町1丁目に、一之丁が本町2丁目になった。榎川は原村と十日町村の境界であり、境界木として榎が立っていた」と語る。戦時下、贅沢禁止令の『七・七禁令』が発布されて十日町の絹織物は大打撃を受けたが、昭和25年(1950)に禁令は解除。「旧原村には関芳、滝文、吉澤、エドヤと機屋が立ち並んでいたが、写真の30年頃は十日町産地の戦後復興の兆しが見え、気持ちにも明るさが見えた頃」だと言う。榎川に水車を架け、それを動力にして米屋が米を搗き、撚糸屋が糸を撚った。町内には芸者置屋、料理屋、菓子屋、床屋、銭湯などがあり「粋が香る賑やかな町内だった」と懐かしむ。

(2020年9月19日号掲載)

土砂降りの中での「津南駅」スタート(昭和43年10月1日)

津南町押付 高橋 徹さん(昭和27年生れ)

 越後外丸駅が現在の『津南駅』に改称されたのは昭和43年(1968年)10月1日。「あの当時は年2回のダイヤ改正があり、その一つだった10月に合わせて改称したのだと思う」。ただこの日は、あいにくの土砂降り。写真を見るとくす玉近くの来賓は傘を差し、地面は雨でドロドロだ。「この時は高校生で、父のカメラを借りて撮った。当時まだ車は一般家庭にはほぼなかった時代。来賓、いわゆる偉い人が車に乗って駅に来たと思うんだけど、詳しいことは覚えていない」。雨の門出の日、駅前に万国旗を掲げ祝った。くす玉の中の入っていた垂れ幕には『永えんに栄へあれ津南駅』と書かれていた。

津南駅に改称した頃はちょうど車両が蒸気機関車からディーゼルカーに移行していた期間の最後の頃でもあった。「昭和47年に蒸気機関車が貨物列車牽引から引退する頃、モータリゼーションが進み、物流の主役は次第に車に移っていった」。駅中心にすべてが動いていた時代は終わり、車の時代が到来する直前に生まれた津南駅。平成7年(1995年)には温泉併設の駅となり、住民の癒しの場ともなっている。来月1日、津南駅と改称し52年目を迎える。

(2020年9月12日号掲載)

人と物が集まる拠点だった越後外丸駅(昭和43年)

津南町押付 高橋 徹さん(昭和27年生れ)

 飯山鉄道・越後外丸駅(現在のJR東日本・津南駅)ができたのは93年前の昭和2年(1927)8月1日。人と物を運ぶのは鉄道が中心の時代であり、どの地域も駅を中心に発展した。写真は越後外丸駅前風景。『歓迎 山菜狩り旅行団』ののぼりがある。「冬は『駅から0分』を前面に出した津南スキー場があったが、グリーンシーズンにも人を呼び込む取り組みも始まっていた」。写真左奥に新聞店、そして食堂が見える。「他にも近くに食堂や食料品店があり、外丸炭鉱で働いた人が近くの店で『あがり酒』といって缶詰やかわきものをつまみに酒や焼酎を量り売りして貰い、一杯ひっかけてから家に帰っていた。でも家でもまた飲んでたんだろうな」。写真右には映画の宣伝ポスターがある。「当時は津南に二つの映画館があったから」。止まっているバスは頚城バス。「会社のマークがアルファベットの『K』を丸で囲んでいたものだったから『マルケイ』とみんな呼んでいた。昔は越後外丸駅から樽田経由で松之山までバスが走っていた。今の国道405号線だが、当時の道は細い砂利道。運転は大変だったと思う」。この写真が撮られた同年10月、越後外丸駅は『津南駅』に改称された。

(2020年9月5日号掲載)

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