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昭和の​アルバム

シリーズ連載

十日町小唄まつりの民謡流し

山車にはきものショーモデルも(昭和40年代中頃)

十日町市川西地区仁田 木村喜郎さん(昭和25年生れ)

 十日町織物を繁栄に導いた夏の着物「明石ちぢみ」のCMソングとして昭和4年(1929)に作曲された十日町小唄。十日町と取引があった東京上野の松坂屋デパートのデザイン部長で作詞家の永井白湄と作曲家の中山晋平という、当時売れっ子の2人が曲を作り、国民的スターで女優の水谷八重子が振付けをした。十日町織物工業協同組合は昭和36年(1961)に歌碑を建立し、織物会館前で除幕式を行った。当日は永井と昭和27年に亡くなった中山の息子の卯郎(NHK音楽部長)と水谷、市内出身で後に十日町市長となる春日由三(NHK専務理事)が列席し、歓迎パレードと機屋(はたや=着物メーカー)と市民、行政による約1000人の大民謡流しも行われた。春日はその際「雪まつりと諏訪まつりに併せて『十日町小唄まつり』を行い、十日町の三大まつりとすることを薦めたい」と提案した。

 織物組合青年部会では各団体に呼びかけて40年(1965)6月6日の機祭り黒姫神社(機神様)例大祭の前夜祭として小唄まつり開催を決定した。44年に機屋に就職した木村喜郎さんは「5日の晩、本町通りは機屋等の踊り子で埋め尽くされ、アーケードは見物客でびっしり。踊り子は機屋ごとに揃いのゆかたを着て白足袋に赤い鼻緒の草履を履きあでやかだった。数台のトラックの山車には機屋各社から雪まつりのきものショーに出る女子社員が乗って踊っていた。町の景気の良さが表れた催しだった」と語る。だが、昭和53年(1978)に主催者は、参加者が減ったことから中止を決めた。

(2020年8月29日号掲載)

無謀な戦争の遺産

戦死者弔慰金で建立した下条小学校の校門(昭和17年)

十日町市下条本町 市立下条小学校  所蔵写真

 明治期から昭和20年(1945)は戦争の時代だった。小さな農村、下條村(現下条地区)も戦禍に巻き込まれ、太平洋戦争当時だけでも172人の若者が戦死した。同村出身の山口亮作さん(明治39年生れ)は昭和12年(1937)に召集され、同年中国を転戦中に銃撃で戦死。遺族は弔慰金を使い、15年に子どもたちのためにと下條村立尋常小學校に校門を寄贈した。現在は下条小中学校共通の校門として通学する児童生徒を見守っている。

 山口さんを戦地で荼毘に付した同村の元兵士(故人)と20数年前に戦時中の話をしていた時に「俺は人を殺してしまった。だが、俺がやらなければ俺が相手に殺されていた」と話した。戦争が無ければ平穏に村で暮らせた若者が、武器を持って殺し合わなければならない異常な状況に追い込まれていった。物流の拠点として賑わった下條駅だが、戦時中は出征兵士と家族との別れの場となった。地区内の80代女性は「神社で祈願してから出征兵士が挨拶し、2㌔程の道のりを大人も私たち小学生も歩いて下條駅まで行き、手を振って別れを告げた」言う。市内本町東1の滝澤榮輔さん(大正13年生れ)は十日町駅から見送られた。「表向きは勝ってくるぞと勇ましくだが、家族を置いていく切なさは言い表せない」と語る。隣村の中條尋常高等小學校の昭和9年(1934)卒業生男子は94.4%が徴兵され戦没者は40.7%。若者は根こそぎ駆り出されて半数近くが命を落とした。

(2020年8月22日号掲載)

町場のヤツメウナギ売りと野菜売り

十日町市博物館所蔵 山内写真館資料(昭和32年1月)

十日町市博物館学芸員 髙橋由美子さん(昭和38年生れ)

 写真は昭和32年(1957)諏訪町の節季市(チンコロ市)でヤツメウナギ売りがさばいている様子。髙橋由美子さんは「節季市が立つ諏訪町の通りは十日町小学校へ通う私たちの通学路。ヤツメ売りのあたりの雪の上には血が飛び散り凄惨な光景ですが、写真のように怖いもの見たさで子どもたちの目は釘付けでした」と言う。

 市街地近郊の農家が野菜売りに町場に来ていたが、宮下町西の樋口雅春さん(昭和25年生れ)は節季市の以外にも「十日町橋を渡った信濃川西岸の浅河原からヤツメ売りも来ていた。長物と言えば近所の料理屋には生きたまま棒に巻き付けたマムシも売りに来ていた」と懐かしむ。

 髙橋さんは博物館の職員となり、国の重要有形民俗文化財指定「十日町の積雪期用具」に関するものとして収集しようと浅河原のヤツメを売っていた家に行ったが、ヤツメを扱っていた頃の道具類はすでに無かった。「私も食べましたが子どもにはさほど美味しいとは思わなかった。焼いた時に出る脂を眼に摺り込むと、雪目(雪に反射した紫外線による雪眼炎)や鳥目(夜盲症)に良いとされました」。髙橋さんの自宅の加賀糸屋町にもリヤカーを引き野菜類の物売りたちが来た。「スーパーが出来た頃にも野菜売りの顔馴染みのおばちゃんが『ここんしょなじだね~』売りに来ていました。出掛けなくても買えて安心な野菜なのでありがたかった」と話していた。町場の住民は、物売りから夏場は旬の野菜を買い、11月下旬頃になると越冬用の野菜を買って冬に備えていた。

(2020年8月15日号掲載)

官民で誘致した下條停車場(駅)

村内と川西方面の物流拠点に 下条小学校所蔵写真(昭和2年)

十日町市下条本町 小杉貞吉さん(昭和3年生れ)

 下條村の官民一体の誘致運動が実を結び、鉄道省十日町線(現飯山線)の下條停車場(駅)開業は昭和2年(1927)11月15日。下条本町の昭和56年(1981)発行の10周年記念誌には開業当日を知る人たちの談話が載っており 「地上からは花火を打上げ、空からは二枚羽根(複葉機)の飛行機が祝賀ビラをまいた。俺も列車に乗ったが超満員で十日町までの汽車賃は13銭(現在の300円~400円程度)だった。昼間はみんなが出て旗行列で夜は提灯行列と大騒ぎだった」と誘致が実現した村民の喜びがうかがえる。同日、十日町停車場上空では朝日新聞の飛行機がビラをまいており、同社の飛行機が下條にも飛来したと思われる。

 同年、丸通合同運送店と川西方面を結ぶ桑原の渡し舟が開業し、駅は村内と川西の物流拠点となる。昭和23年には下條農協が駅隣接地に設立して賑わいを増す。小杉貞吉さんは昭和22年(1947)から下條駅に勤務。当時、駅には駅長と助役、駅務係の5人がいて、鉄道の維持管理の保線区職員もいた。写真左が便所で中央が駅舎、隣接した少し屋根が低い建物には信号切替機が入っており、右側の小さい建物が保線区詰所。同駅には貨車の引込線が設けられ、桑の苗木や種豚と肉豚、米に肥料、駅前には農機具店がありヤンマー製品なども出入荷した。「切り離した貨車を動かす時は、駅員と丸通の従業員が左右の車輪の下に2㍍程のバールを突っ込み押し下げて動かした」と語る。

(2020年8月8日号掲載)

官民で誘致した下條停車場(駅)

開業を喜び祝賀門と打上花火(昭和2年11月15日)

長岡市滝谷町 中川光示さん(昭和3年生れ)

 越後川口~十日町間を結ぶ鉄道省敷設の十日町線(現飯山線)の開通は93年前の昭和2年(1927)11月15日。終端の十日町停車場(駅)の町民をはじめ中條、下條でも村民が開業を大いに祝った。写真は下条小学校に保管されていたもので開業を祝い下條駅前に立てられた紅白の祝賀門。当日と翌日は駅からわずか180㍍の野田集落で花火176発を打ち上げ、両日は一般と有志に向けた祝賀会が行われ一石(約180㍑)の酒が振る舞われた。

 下条出身の中川光示さんは「下條駅開設を求めた住民運動」ついて調査。当初の計画では小千谷市の岩澤駅と十日町駅間(延長約12.8㌔)は1駅とし中條が有力とされていた。「中條と十日町間はたったの3.1㌔。強力な発言による政治的判断があったのではないか。これでは下條は納得できなかっただろう」と推察。既決計画を変更させ駅新設には大変な努力があった。村では下條に加え川西方面の橘、上野、真人3村の人口や旅行状況と下條での物資の出入り等を詳細に調査し「当村に停車場を設置すれば最も利益がある」と結び中央に訴えた。昭和4年3月の記録には中條の乗降客6343人、貨物扱い185㌧で、下條は乗降客6350人、貨物扱い388㌧と下條と川西を結んだ成果が見える。「乏しい村予算では誘致運動を賄えず村民の寄付にも頼った。計画立案と陳情等の中心となった村当局の尽力、協力した村民の心情を考えると喜びはいかばかりだっただろう」と語る。

(2020年8月1日号掲載)

信濃川発電所のも運んだ下條駅(昭和30~40年代)

十日町市下条 小杉貞吉さん(昭和3年生まれ)

 小杉貞吉さんは昭和22年(1947)に国鉄職員に採用され初めての勤務は地元の下條駅。3年程勤めて異動し、その後も何度か同駅に勤めた。

 中央の黒いものが貨車で、その奥が駅舎。貨車の右側が荷物を積み下ろしするための仮置き場の上屋(うわや)で、右隣には下條地内と旧川西町方面へ行き来する荷物を扱う丸通合同運送店があった。駅構内のみ複線になっており、写真左側が長岡方面に向かう下りホームで旅客用の小さい待合の建物があった。駅舎側が十日町方面に向かう本線の上りホーム。手前から右に伸びるレールが貨車用の引込線で、写真右側の丸い標識が付いた転轍機で本線、引込線と切り替える。

 昭和14年(1939)に運用を開始した国鉄千手発電所の水を水路、水路橋等で小千谷に送って再度発電する計画あり、小杉さんは国鉄勤務前の昭和20年頃に川西方面で地下トンネルの掘削工事に従事した。雨合羽も無い時代で蓑(みの)を着て斜坑からワイヤーで繋がれた動車に乗り本坑に下りて作業した。工事には大量の物資が必要で、写真左側ホームの後ろには貨車用の引込線が2本敷設されていた。引込線近くには2階建て住宅を超す程の高い木製ヤグラが建ち、信濃川を渡す鉄索(ワイヤー)が両岸に張られて物資を吊り、対岸の木落集落に渡した。「セメントなど様々な資材も鉄索で送ったが、トンネル坑内を支える木材が大量に下條に運ばれてきて渡した」と語る。

(2020年7月25日号掲載)

沿線の冬の運輸を担った飯山線

様々な人が行きかった十日町駅(昭和40年代)

十日町市下条 小杉貞吉さん(昭和3年生まれ)

 市博物館所蔵の写真に、本町通りの国道117号線を昭和41年(1966)2月に撮影したものがあるが、通りは雪に埋もれ自動車は通行できない。

 小杉貞吉さん昭和30年代~40年代にかけて十日町駅に勤務。「冬は車が通れず、物資と人を運ぶ列車が果たす役割は大きかった」と語る。除雪は長野鉄道管理局の人夫と駅職員の他、国鉄から委託された多くの沿線住民も雪を片付け冬期間の路線確保を担った。通勤通学の足としてだけではなく、諏訪町に立つ節季市(チンコロ市)の時は「各方面から農家が市で売るために藁や竹細工の品物を持ち込んでくる。かさ張る荷物を持ったままでは本来客車には乗れない。しかし、現金収入が少ない農家が一生懸命冬仕事で作ってきた品々なので他の客が乗らない郵便車両に乗せてやった」と言う。雪まつりでは長野や新潟方面から臨時列車が出て、十日町駅は大混雑するため公安関係の職員が来て事故が無いよう警備に当たった。下条地区の50代男性は「下条駅は北の玄関口。中学生の頃は各組が駅に雪像6基を作り乗客を歓迎した。小学生当時、雪まつりに行くため祖母と下条駅から乗ったが身動きできない程の混雑。はぐれないよう祖母としっかり手を繋いでいたが途中で手が離れたのだろう。十日町駅に着いたら知らないばあちゃんの手を握っていた」と笑う。

 歳末が近づくと機屋各社が取引先に贈る歳暮用の蕎麦を大量に十日町駅へ持ち込んだ。

(2020年7月18日号掲載)

地域の運輸を担った貨物列車

十日町駅で活躍した入換動車(昭和40年代)

十日町市下条 小杉貞吉さん(昭和3年生まれ)

 昭和30年代〜40年代にかけて何度か十日町駅に勤務した小杉貞吉さん。自動車の普及以前は物資、旅客とも鉄道が輸送を担っていたと語る。

 昭和47年(1972)10月2日のダイヤ改正で蒸気機関車(SL)は姿を消したが、それ以前の数年間はSLとディーゼル車が併用されていた。写真は構内専用のディーゼル機関車で「入換動車」。十日町駅舎の西側には貨車を行き先別に組替えるために専用のレールが4本敷かれていた。「SLは力があったが、給炭は人力の仕事で給水と灰の始末もあり運用には大変な手間がかかった。SLの運転は長野鉄道管理局の職員だったが、入換動車は十日町駅の職員が運転でき扱いが便利だった。燃料は給油するだけなので非常に楽になり、入換動車は小型だがかなりの馬力があった」と言う。

 豚などの家畜から米、野菜、肥料、農薬等様々な物資を積載した。高田町方面で切り離された貨車は自走し組替え路線に進む。職員は貨車に飛び乗って片手で取っ手につかまり、片脚を逆立ちのように上にあげて上体を下に向け、ブレーキを踏みながらいくつかあいた穴に鉄製ピンを刺して固定する。「制動の加減が難しく、慣れない者が失敗し、連結の際に衝撃が強くて満載の瓶ビールをガシャガシャと割って大騒ぎしたこともある」と苦笑。当時、着物産業が盛んで大量の反物も運んだが貨車ではなく客車と同じ型の荷物車に積んだ。

(2020年7月11日号掲載)

駅西側構内の様々な建造物が写る(和30年代後半〜40年代前半)

広々とした敷地を持つ十日町停車場(昭和2年)

石炭駆動のロータリー車で冬場の路線確保(昭和初頭)

交通の便を図った多くの駅員たち

産業振興と通勤を支えた十日町駅(昭和30〜40年代)

十日町市下条 小杉貞吉さん(昭和3年生まれ)

 鉄道省敷設の十日町線は93年前の昭和2年(1927)11月15日、十日町町民、中條と下條村民の大きな期待を受けて越後川口〜十日町間が開通。長野方面からは飯山鉄道株式会社が路線を延伸して4年9月に十日町停車場(現JR十日町駅)まで接続し、現在の飯山線区間が全通した。

 小杉貞吉さんは終戦から間もない昭和22年(1947)に国鉄職員に採用され、59年(1984)の退職までの37年間、新潟、長野、山梨と様々な駅に勤務。近くでは下条駅と小千谷市の岩沢駅へ、昭和30年代〜40年代は十日町駅に何度か異動があった。

 上段の写真(仁田・木村喜郎さん所蔵)は、昭和30年代後半から40年代前半に撮影された十日町駅舎西側の構内。「当時、駅の営業職員だけでも30〜40人程で、車両関係の派出所には運転士や保線、整備などの職員が20人ぐらいはいた。写真中央は機関庫、左側の円形の構造物は蒸気機関車(SL)を方向転換させる転車台。その向こう側には車両を洗う洗浄線があった。線路右側は給炭庫。貨車で運ばれた石炭は炭スコというシャベルで給炭庫に手で積んだ。写真右側にはSL用の給水塔が写っている。保線係の詰所もある」と説明する。

 石田裕一前十日町駅長は「この頃はSLとディーゼル車が入れ替わる端境期で両方の車両が走っていた。昭和47年にSLはすべて廃止され、転車台は埋められた。平成28年まで昭和4年に建てられたホーム待合室を倉庫として使っていた」と話していた。

 中段の写真(市博物館所蔵)は昭和2年の開業の年に撮影された。ホームは片側だけだが、広々とした構内の左奥には給水塔と機関庫、中央奥には煙を吐くSLが写っている。鉄道省が同年11月に発行した十日町線建設工事概要には「建物は木造平屋建で建坪は331平方㍍、屋根は亜鉛引き鉄板葺き」とある。

 小杉さんが十日町駅で勤務していた当時は着物産業が上昇を続けている頃。朝は荷物の受付開始前から機屋(はたや=着物メーカー)と問屋を繋ぐ買継商が並んでおり、反物を詰め込んだ荷物が山のように運び込まれ、集荷場だけでなく待合室まで積まれた。「伝票は手書きの複写で手間が掛かる。運賃をその場で貰うとさらに時間が掛かるので後払い。長野鉄道管理局管内では荷物の取扱い量は十日町が2〜3位だった」。乗用車が普及していない時代は通勤通学の足として利用される。「朝夕とも上り線、下り線の利用者は多く、駅から駅通りはものすごい混みようだった」と振り返る。

 貨物列車の扱いも大変だった。夏場は鉄製の貨車は焼け、内部は目も口も開けていられない程の熱さ。長野方面、長岡方面へと貨車の組替えが必要で、西側構内には4本のレールが敷かれていた。駅の南側、高田町踏切方面は傾斜が高く、そこで貨車を切り離す。自走する貨車をポイント係が必要な方向へレールを切り替えて向かわせる。速度が増した貨車に別の職員が飛び乗り、取っ手につかまり足踏みブレーキを踏みながら、ブレーキ下部にいくつか空いた穴に、任意の位置へ鉄製のピンを刺して固定する。「踏み加減が難しく危険な仕事だった。貨車の連結作業で挟まれ、腕を切断した人もいた」と言う。

 当時、冬は国道117号線は雪で埋もれて通れない。徒歩か列車が交通手段だった。冬場の路線の確保は重要な仕事。夜間、鉄道管理局から大勢の人夫が来て除雪に当たる。ホームやポイント、信号機等は駅職員が除雪。「大きい駅は人数が多いが、小さい駅だと二人ぐらい。長いホームの除雪は大変だった」と語る。管理局と駅職員だけでは長い路線の除雪は不可能で、地区ごとに住民に除雪を依頼。頼まれた住民は親方を中心に組を作る。任された区間の距離を人数割にする「コマ割」式で、そのコマが終わらない人は帰れない。

 下段の写真(市博物館所蔵・昭和初頭)はSLと同様、石炭動力でロータリーを回転させる除雪車。自走できないため後方にSLを連結する。ロータリー車を使った除雪方式は「キ・マ・ロ・キ」と言った。まず、線路上に積もった雪をロータリー車(ロ)が機関車(キ)に押されながら吹き飛ばす。次いで機関車(キ)が牽引したマックレー車(マ)という車両が「八」の字に開く鉄の翼で線路両脇に高く積もった雪を線路上に掻き落とす。その雪を再度ロータリー車(ロ・キ)が飛ばして列車の通行を確保した。

(2020年7月4日号掲載)

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