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昭和のアルバム

シリーズ連載

(2020年12月26日号は休載)

(2020年12月19日号は休載)

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十日町総鎮守の諏訪神社①

(昭和3年)

十日町市本町東1 瀧澤榮輔さん(大正13年生れ)

 市街地の東側、十日町総鎮守の諏訪神社の御本社は長野県南部の諏訪市にある。昔、信濃川に大水が出た時に島集落に金の幣束が流れ着いたが信州諏訪大社のものだということで、それを御神体に祀ったのが島の諏訪神社。今から900年程前の平安時代中頃、洪水で島から現在地に遷座したのが十日町の諏訪神社の始まりと伝えられ、現本殿は273年前の延享4年(1747)に再建されたもの。

 平成7年に発行した「八角神輿二百年祭・諏訪神社物語」の編集委員長を務めた瀧澤榮輔さんは「諏訪社は建武中興の新田氏、大井田氏とのゆかりが深く、かつて神社に立っていた老杉は新田義興、義宗の手植えと伝承される御武家杉。時代は南北朝の正平年間(1346〜1369)にあたり、それだけ見ても神社のルーツはかなり古い」と推察する。西南戦争鎮圧後の明治12年頃(1879頃)に新拝殿再建を図るが不発に終わり、17年頃に再び建築が相談されたが恐慌不況で再度中止となる。32年(1899)には、氏子は元禄11年(1698)の建築以来200年目の好機だと捉え、十日町村1千戸に対し1戸月3銭(現在の価値で600円程度か)ずつ7年間集めて建築するという計画を立てた。だが、翌年の十日町大火で村民は被災し三たび中止となった。大正に入り氏子から再建の機運が高まって15年(1926)8月に念願の新拝殿はようやく落成した。諏訪神社は明治6年(1873)に村社に列せられていたが、昭和3年(1928)には郷社に昇格し、この時に写真の社務所が新築された。

(2020年12月12日号掲載)

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下条仙之山の茅葺き民家の生活⑤

(十日町市博物館所蔵写真)

十日町市下条為永 中町保夫さん(昭和5年生れ)

 撮影年代と場所は不明だが、下条の山間部、仙之山生れの中町保夫さんは「父の冬場の仕事はもっぱら藁仕事と雪掘りだった」と思い起こす。写真は亀の甲型の石の上で、横槌(よこづち=写真左下)で藁を叩いて繊維を柔らかくしているところ。叩くことで加工しやすく丈夫になる。藁は生活道具と農作業には欠かせなかった。

 中町家では、内玄関の土間の隅に藁叩き用の石が置いてあり、小ムシロを4つ折りにしたものを敷いて座る。「父は『藁を一把叩けば体が温まる。コタツにあたらず、石にあたれ』と言っていた」と懐かしむ。藁でワラジに草履、ムシロ、カマス(藁製の袋)などを作り「特に縄類は何をするにも必要だった。秋、稲を干すハザを作るには自分で作った縄と稲を掛ける太い三つ編みの『グミ』(太縄)が無ければ始まらなかった。屋根裏には沢山の量の縄とグミが置いてあった」言う。

 やがて村の共同作業場には、モーター動力のローラーに藁を挟んで柔らかくする機械が入り、大幅に作業効率が上がった。妻のアイさん(昭和8年生れ)は「戦時中の小学生の頃、どこに供出して何に使われたか分からないが、学校から縄ないをして出すよう言い付けられた。体が小さくて力も無く横槌が振れないので、藁を背負って行きローラーにかけてもらった覚えがある。学校の運動場の隅に山ほど縄が積んであった」と語る。

 戦後、高度経済成長期に入り様々な物資が出回ると藁製品の需要は減り、コンバインの出現で藁は機械が切り刻み、藁自体も手に入らなくなった。

(2020年12月5日号掲載)

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下条仙之山の茅葺き民家の生活④

(十日町市博物館所蔵写真/昭和30年頃)

十日町市下条為永 中町保夫さん(昭和5年生れ)

 撮影地は不明だが下条の山間部、仙之山でも絹糸の原料、蚕の繭生産は盛んに行われていた。中町保夫さんは「仙之山の9割程の家が養蚕(ようさん)を行っていた」と語る。写真左下が蚕。

 蚕は「ぼこさま」と呼ばれ、春蚕(はるご)夏蚕(なつご)秋蚕(あきご)晩秋産と年4回飼うことできるが、蚕の餌の桑を育てる畑を持っていることが前提。養蚕の時期に合せて水沢、十島、高助という3種の桑を使った。養蚕には蚕紙(さんし)という卵が産みつけられた紙を買ってきて孵化させるが、気温が低い時期の春蚕は紙で温室を作り火鉢を入れて中を温める。孵化したての蚕は毛が生えていることから毛蚕(けご)と言い、桑の先端の柔らかい葉を与える。しばらくすると脱皮するため頭を上げてじっとしているが、1回目が一眠で四眠まで繰り返して大きくなる。

 「大人の蚕は食欲が旺盛で、桑の葉を与えると『サンサンサン』というような食べる音が聞こえた」と言う。濡れた桑の葉は蚕に良くないので、家中に広げて乾かしてから与えた。成熟した蚕は頭を上げて糞を出し切るまでじっとしていて体が半透明の「すきっこ」になる。藁を粗く山形状に編んだツクに移すと、蚕はツクの間に縦横に糸を張って繭を作る。数日後、出来た繭を振ってみて「ぽたぽた」と音がすると中でサナギになった証拠。繭は籠に入れて背負い下条農協へ出荷した。中町さんは結婚後の昭和34年(1959)に母が亡くなり、人手と手間が必要な養蚕はやめた。

(2020年11月28日号掲載)

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下条仙之山の茅葺き民家の生活③

(中町家自宅/平成5年)

十日町市下条為永 中町保夫さん(昭和5年生れ)

 下条の山間部、仙之山で平成5年に中町保夫さんが撮影した自身の生家。茅屋は風雪から家族を守るだけではなく、家畜や蚕を飼い、縄ないや俵編みなどの農作業をする場所でもあった。

 母屋の左側から突き出た部分は「前中門」で外玄関と馬屋、内玄関、便所があり、それに続く母屋には農作業もする板敷の部屋「にわ」には、にわジロ(囲炉裏)がある。にわの右側には茶の間(ここにもジロがある)、座敷の「つぎのでい」と床の間を設けた奥座敷「奥のでい」がある。母屋の後方は「後ろ中門」で「みっちょ」(水所=台所と風呂場)と寝室があった。水道がない時代、生活用水は裏手の斜面に横穴を掘り、そこから湧き出た水は傾斜を利用してみっちょまで引き、かけ流しにして利用した。地面を掘る井戸と違い、汲み上げる労力が不要で便利だった。写真の母屋と前中門の屋根の継ぎ目は濃い茶色になっているが、両方の屋根から雨水が流れて茅が傷みやすいので、その部分だけ杉皮を重ねて葺く。その部分はダキといった。「雪下ろしは屋根の頂点(トタン部分)のグシから行う。板葺きやトタン葺きの屋根は下から上に向かって雪を下ろすが茅屋は反対。下ろした雪は締まって固く、片付けは重労働だった。雪掻きなどという生易しいものではなく家を掘り出す『雪掘り』だった」と語る。

 茅葺きの家の屋根裏は貯蔵庫で、ジロで焚く薪と冬場に牛や馬に食べさせる干草、屋根の葺き替えに必要な茅なども蓄えていた。

(2020年11月21日号掲載)

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下条仙之山の茅葺き民家の生活②

「いなだき」は平安時代発祥で子の将来を祝福

(十日町市博物館所蔵写真/昭和29年頃)

十日町市下条為永 中町保夫さん(昭和5年生れ)

 写真は昭和29年頃(1954頃)下条の山間部、仙之山で大晦日に行われた「いなだき」の様子。父親が持つ四角いお盆には、お供え餅と勝栗、昆布が乗せられ、男の子は手を合わせている。

 中町保夫さんは「いなだき」を頭上や物の一番上の「頂」と、物を貰った時の謝意「戴き」を表すものと推測する。古語では「いただき」と「いなだき」は同義語。写真の男の子は健在で「いなだきをする時、床の間の前に座れと言われたことを覚えている」と中町さんは聞いた。中町さんの妻、アイさん(昭和8年生れ)は下条の平場、下山出身で「大晦日の晩、家族がお膳に着いてから歳の若い順にいなだきをした。お盆には米とスルメ、勝栗、干し柿が盛られていて、頭上に捧げられると柏手を打って手を合わせた」と思い起す。

 中町家では大晦日にしめ飾りを玄関と年取り神様、先祖代々の御霊様、台所の水神様など6か所に張った。食膳には農家がめったに食べられない鮭の切り身、芋と昆布、コンニャク、小さく切った鮭が入った煮物「オヘラ」、大根なます、澄まし汁などが並んだ。除夜の鐘が鳴る少し前に男たちは村の鎮守へ初詣。「女たちはその間、雑煮をして待っており、初詣から戻ってくると雑煮餅を食べる夜中の朝めしだった」と言う。小正月は子どもたちが豊作を願う鳥追い洞(ほんやら洞)を作る。夜はその雪洞で過ごしてから、他の鳥追い洞と対抗する恒例のケンカ。翌朝は藁とボイ(細枝の薪)で作った山としめ飾りを焼くサイノ神。厄年の者は厄払いの人形(ひとがた)も焼いた。

(2020年11月14日号掲載)

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下条仙之山の茅葺き民家の生活①

(十日町市博物館所蔵写真/昭和30年頃)

十日町市下条為永 中町保夫さん(昭和5年生れ)

 写真は昭和30年頃(1955頃)に撮影された下条の山間部、仙之山のある一家の食事風景。年寄り夫婦と若夫婦、子ども二人が写る。仙之山出身の中町保夫さんは「真ん中の父親の弟は、私の1歳年上で子どもの頃はよくその家に行き、元気に遊んだ仲だった。右側の幼い男の子は今は60代で仙之山に住んでいて健在でいる」と言う。

 めいめいに食器を乗せている台は蓋付きの箱膳で、家族は三升炊きの釜と汁物の鍋、おかずを囲んで食べる。「男の子の脇の皿は魚の切り身のようだ。戦争が終わって大分経ってからホッケを食べた記憶があるが、農家が魚を口にすることはめったなかった」と振り返る。副食が少なく肉体労働をするため米を多く食べた。家族構成で違いはあるが、中町家では朝、二升の飯を炊いて朝と昼に食べ、夜は一升を炊いた。「私はご飯を2杯食べ、シンノミ(汁の実)をたっぷりと入れた具沢山の味噌汁をおかわりしていた。油で具を炒めてから煮たケンチン汁はごっつぉ(ご馳走)の部類だった」と思い起こす。食べ終わると飯茶碗に湯を注ぎ、漬け菜(野沢菜漬け)などで飯粒を撫でてきれいにし、次いで汁椀にその湯を移し、最後は皿にお湯を少し入れる。すすいだ湯はすべて飲み干して食べ物は一切無駄にしない。食器は箱膳にしまい蓋をして片付ける。「今の人が聞けば汚いと思うかもしれないが、当時はそれが当たり前で、食器は60日に一度の庚申の日に洗う。抵抗力も付き、食中りもせず皆が丈夫だった」と笑う。

(2020年11月7日号掲載)