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昭和の​アルバム

シリーズ連載

昭和最後の雪上カーニバル

昭和63年2月13日

山本貴一さん(昭和14年生れ・十日町市中条中町)

 学生の頃から写真を始めた山本さんは、十日町雪まつりの雪上カーニバルも長年撮り続けた。

 十日町の昭和終盤はリゾート建設の機運が高まり、昭和63年(1988)第39回祭の雪のステージは「リゾートへの旅立ち」と名付け期待が込められていた。翌年の平成元年2月には株式会社当間高原リゾートが設立され、平成8年(1996)に当間高原リゾートホテルベルナティオが開業した。

 昭和32年(1957)の第8回祭から十日町織物業界は雪まつりに関わって全国へのPRに努めており、昭和45年(1970)の第21回祭より十日町高校グラウンドから山上の城ケ丘グラウンドへの会場移転を決めた。カーニバルを主管していた十日町織物工業協同組合の青年部会に山本さんも在籍しており「移転に当たり、警察は山上へ続く坂道での転倒や将棋倒しによる事故を心配し許可を出さなかった」と言う。しかし、地域の基幹産業と雪まつりを担っていると自負する部会員は「全国でも珍しい雪まつりをつぶすのか。ダメだと言うだけではなく、どうすればいいのか考えてくれ」と折衝した。その結果、機屋各社から多数の警備員を出し当日を想定して2~3回予行演習。警察は機動隊を出して安全確保に当たり山上でのカーニバルが実現した。「雪上カーニバルには様々な思い出がある。昭和最後のステージは帆船にふさわしく、長大な造形だった」と振り返る。

                         (2020年2月22日号掲載)

雪まつりきものショーのきっかけとなった

十日町洋裁学院のファッションショー

昭和34年3月15日

十日町市博物館所蔵 山内写真館資料

田村恭子さん(昭和12年生れ・十日町服飾専門学校  理事長)

 写真は十日町服飾専門学校の前身、十日町洋裁学院の創立10周年記念で行われたファッションショー。会場は現在の市民交流センター分じろう裏手の立体駐車場近辺にあった十日町織物会館3階ホール。田村さんは都内の女子美術大学在学中に様々なファッションショーを見ていた。それまで文化祭で校内に生徒の作品は展示していたが、帰郷した1年後の昭和34年(1959)が10周年に当たることから卒業制作のショーを企画した。

 「ショーには十日町織物工業協同組合の青年部会が協力してくれました。県内初のファッションショーとあって、当日お客さんは小路を入った織物会館から国道沿い商店街の南は大万さん、北は西脇さん辺りまで左右に分かれて並んだ程の大盛況でした」言う。田村さんも手伝った青年部会員も大成功に感激。織物組合は十日町雪まつりに深く関わっており「青年部会の人たちは学院のショーから雪上ステージでの『きものショー』開催を発想。それまではミスユニバースなどが着物を着て舞台上で挨拶する程度でした」。洋服と違い簡単に着替えが出来ないことから、機屋の多くの女子社員もプロとともにモデルに。田村さんはポーズや動きを指導した。「これまで続いたことを誇りに思います」と語る。昭和57年(1982)に始まった『ミス十日町雪まつり』以来、田村さんは現在もミスに所作や言葉遣い等を教えている。                (2020年2月15日号掲載)

「暖冬・小雪と豪雪」

昭和36年1月26日

池田友好さん(昭和9年生まれ・元毎日新聞・新潟支局長 新潟市在住)

 暖冬・少雪で県内は悲喜こもごもだ。松之山の伝統名物行事「婿投げ」は、どの新聞も勢いよく宙に舞う婿殿の写真はなかった。カメラマンのせいではあるまい。雪不足で会場が変更になったり、雪が少なくて婿殿を高く投げ上げられなかったのだろうと思う。

 報道によると、スキー場は芝生が見え、野菜、酒などを貯蔵する雪室は普通の倉庫と化し、除雪業者は収入減、雪が頼りのイベントは中止や延期、縮小を余儀なくされているという。

 一方で自宅周辺の道路、屋根雪の処理をしないですむ高齢者などは大助かりだ。豪雪地の十日町市出身の私も今冬のような寒中(小寒から節分まで)の暖冬・少雪の記憶はない。やはり地球温暖化による異常気象なのだろう。

 暖冬・少雪とは真逆の豪雪の体験は物心ついてから枚挙にいとまがない。102歳で逝った母から聞いた話だと、私の生まれた昭和9年も大雪だったそうだ。5月半ばというのに、私をとり上げてくれた産婆さん(助産師)は神宮寺から雪道を駆け付けてくれたそうだ。余談だが、その産婆さんは今のご住職の祖母であり、お母さんも産婆さんで、私の長男誕生でもお世話になった。

 敗戦の昭和20年から30年にかけての冬は私の体験でもっとも大雪だった。本町通りの雁木を挟んだ雪道から電線越しに信濃川が見えた。次は例の「三八(さんぱち)豪雪」(昭和38年)だが、この時は妻有地方は例年通りだったように記憶している。

 私は新潟支局の指示で長岡通信部(現在は支局)の取材応援に向かった。越後川口までは飯山線のラッセル車に乗せてもらい、川口からは長岡市まで歩いた。結局、上越線が開通するまでの約1か月間、通信部の2階に泊まって取材に駆け回った。自衛隊が雪原に鉄板を敷いて道路代わりにしたり、火炎放射器で消雪を試みたが効果はなかった。自衛隊のヘリに同乗して栃尾、見附、三条方面の雪との闘いも取材した。

 長岡市での豪雪はのちに支局長として赴任した

昭和59年「59豪雪」はじめ何度か体験した。降雪の少ない新潟市でも1回だけ民家が屋根の雪下ろしをした年があった。

 ともあれ、今日から2月だ。暖冬とはいえ例年だともっとも降雪の多い時期だ。どんな降り方をして春を迎えるのだろう。             (2020年2月8日号掲載)

懐かしい木造校舎・中条中学校

昭和20年代

池田友好さん(昭和9年生まれ・元毎日新聞・新潟支局長 新潟市在住)

 戦時中から終戦直後の世情混乱期に少年時代を過ごした私たちは2回の学制改革に遭遇した。

昭和16年4月1日施行したばかりの新学制で誕生した中魚沼郡中条村立大井田国民学校に入学した。6年間の義務教育が終わったら、それまでの2年制の小学高等科が「6・3制」義務教育の「新制中学」になり、昭和22年5月に中条村立中条中学校が創立された。(ちなみに「小学校」という名称の学校に通学した経験のないのは昭和9~10年早生れの私たちだけではなかろうか)。

 新制中学校が創立されたものの校舎はまだ建設されておらず、本校を中条小学校に、大井田、飛渡第一、飛渡第二の各小学校に分校が併設され、私たちは国民学校当時の校舎に通学した。この写真の校舎が建設され、私たちが本校の生徒と初めて顔を合わせしたのは23年10月だった。

 2、3年生は高等科から編入したので、私たちは3回生だが1年生から新制中学生の私達が事実上「1回生」になる。新校舎といってもかなりお粗末だった。廊下の窓ガラスは細いパイプ状の棒ガラスだった。屋内運動場(体育館とは言わなかった)は半分しか出来ていなかった。私が入部した篭球部(戦時中の英語を使わない名残りで「バスケットボール」と言わなかった)は放課後、その運動場を排球部(バレーボール部)と交代で使った。卓球部は生徒玄関上の天井の低いフロアを使っていたように思う。グラウンドは整備中だったので野球部はなかったように記憶している。

 授業の合い間にグラウンド整備のため、信濃川から石や砂利を背負って運ぶ作業にも従事した。そのグラウンドは卒業した直後に完成した。今年は創立74周年である。遠い昔のお粗末な木造校舎で卒業してから70年余。年に1回、お盆の墓参で帰省するが、車窓から近代的な母校がちらっと見える。隔世の感が強い。   (2020年2月1日号掲載)

十日町織物会館で行われた機屋各社対抗親善球技ナイター戦

​卓球大会

昭和45年頃

十日町市博物館所蔵 山内写真館資料

瀧澤滎輔さん(大正13年生まれ・十日町市本町東1)

開發ます子さん(昭和23年生まれ・十日町市下条上新田)

​木村喜郎さん(昭和25年生まれ・十日町市川西地区仁田)

 滝文役員を務めた瀧澤さんによると、写真は十日町織物会館3階にあったホールで上部の低い天井は2階席。卓球台は4面置くことができたという。「運動部は福利厚生の一環で機屋(着物メーカー)各社はもちろん、繊労や織物組合もバックアップしていた。機屋最盛期には関芳の従業員1000人、滝文700人、睦600人と言われた程で若者の元気であふれていた」と語る。

 昭和44年(1969)に滝文に入社した木村さんは「卓球とバレーボール、野球が盛んで、私は夕飯を食べてから9時頃まで市民体育館でバレーの練習をした覚えがある。会社では編み物や活け花等の教室も設けていた」と言う。開發さんは38年頃(1963頃)根茂織物に入社してから卓球を始めた。機屋の大手と中堅企業の8社程からチームが出て、織物会館や市民体育館で仕事が終わってからのナイターリーグが行われた。「試合は毎週木曜日。シングルスと混合ダブルスの総当たりのリーグ戦なので終わるまで数か月かかりました。大手の会社は大学などから卓球の強い選手を従業員として雇い入れたほどの熱の入れよう。負けて悔しくて泣いたこともあります。普段は会社の食堂のテーブルを片付け、卓球台を出して夜に練習です。お盆休みは県大会から全国大会に出場しようと睦織物で合宿したこともありました」と懐かしむ。        (2020年1月25日号掲載)

鉄道と共に地域の流通を担った下條駅前の丸通合同運送店

昭和2年開業

大渕悦郎さん(昭和12年生まれ・十日町市下条栄町)

 写真は93年前の昭和2年(1927)11月15日に開通した省線十日町線(現飯山線)の下條駅に隣接して同年に開業した丸通合同運送店。同社は通称「丸通」の全国地区通運協会の前身に加盟したと思われる。写真は昨年10月に撮影。屋根下の丸通マークは長年の風雪に耐えくっきり残っていたが、建物は翌11月に解体された。

 同年、大渕さんの祖父、亀治さんを含めた4人が下條運送店を設立。さらに村内の丸山運送店と合併して丸通合同運送店となった。同線の建設計画は岩沢(現小千谷市)と十日町間は1駅とし中條が有力視された。しかし、村では下條と信濃川対岸の川西3村の人口や旅客と物資輸送の見込みなどを詳細に調査し、当局に陳情と折衝を行った結果、既決計画は変更、下條駅追加が実現した。同年には川西と下條駅を舟で結ぶ桑原の渡し(橘・下條停車場線渡船組合)も開業。大渕さんは「我が家は元々、馬で荷物を運ぶ運送曳き(運送業)だったので丸通開業に関わったのではないか。鉄道は物資輸送に重きを置いていた。川西からは脚を縛った豚を渡し舟に載せて運び貨車に積んだこともあり、様々な物資を扱った」と語る。18年(1943)には東小千谷丸通運送と合併し、20年には日本通運と合併。同社で働いていた人たちは亡くなったが家族によると40年代中頃まで営業したという。                    (2020年1月18日号掲載)

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