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昭和の​アルバム

シリーズ連載

手織りの高機で柄合わせをしながら織る

当時最新型の織機で白生地を織った

織物産地の繁栄を支えた出機

十日町の機織りの歴史を頂点に

木村喜郎さん(昭和25年生れ・十日町市川西地区仁田)

 「とんとんからりん」と旧川西町の橘地区のあちこちから出機(でばた)の音が響いていた。当時学生だった木村さんが昭和41年頃「その音にひかれて近所で撮影させてもらった」と振り返る。

 十日町織物の歴史は古く、現在の市博物館と西小学校の一帯から発掘された約1500年〜1000年前の馬場上遺跡の出土品から、すでに機織り(はたおり)が行われていたことが分かった。その後に織られた越後布は豪雪地帯の魚沼、頚城、刈羽が産地。上杉謙信と景勝は越後布生産を保護・推奨した。それに継ぐ越後縮(ちぢみ)は明和年間(1764〜72)には約4万反を生産。機織りには農村の婦女子が当たった。

 十日町織物産業を隆盛に導いた「明石ちぢみ」の生産の始まりは明治20年代。だが、明石ちぢみは夏の着物であり、産地は秋冬物の生産が悲願だった。大正13年(1924)生まれで滝文の役員を務めた瀧澤榮輔さんは「湿度が高く糸が切れにくい冬に明石を織り、夏場は百姓仕事をしていた。明治28年(1895)にジャガード紋織機が入ってきており、十日町はその機械を使いこなしていた。産地としては通年生産が大きな望みであり、その思いからジャガード機を活用し、昭和4年(1929)に地紋を折り込んだ『意匠白生地』を開発して生産量を伸ばしていった」と語る。

 しかし、戦時中の昭和15年(1940)に贅沢禁止令の「七・七禁令」により絹織物の十日町は壊滅的打撃を受ける。だが、敗戦後の24年(1949)に統制が撤廃されると十日町は奇跡の復興を遂げる。昭和30年代後半から40年代後半、十日町織物の需要は高まり続けたが、機屋(はたや=着物メーカー)の工場だけでは注文をこなしきれず、農家などに織機を据えた数多くの出機が生産を支えていた。

 高度経済成長期の国民所得倍増計画と併せて37年(1962)から始まった農業構造改善事業の恩恵はごく少数の大規模農家のみに限られ、大多数の小規模農家は機械導入や農薬購入での経費拡大が災いし、農業所得だけでは家計を維持できない状況におちいる。農家は農業以外で所得確保の必要に迫られ、農家の男たちは出稼ぎに、女たちは出機に頼ったという側面があった。

 写真の女性は手織りの「高機」(たかばた)で紬・絣を織っている。真剣に柄合わせをしながら織っている様子で、柄の出来、不出来は織り子の腕しだいだった。「腕のいい織り子は機屋の取り合いもあった。江戸時代の北越雪譜には、娘の見た目よりも機織りの腕前に重きが置かれたと書かれている」と語る。機屋に勤めた娘が結婚退社しても、覚えた機織りで家庭に居ながら現金収入を得た。木村さんの母も出機をしており「小さい頃は忙しくて遊んでもらえず、織機のそばにゴザを敷いて眠った覚えがある。機織りの音が心地よかった」と懐かしむ。

 昭和44年(1969)に滝文に入社した木村さんは「撚糸、染め、織り、図案描きなど、機(はた)に関するあらゆるものを外注が支えていた。本社は外注のための司令塔的な役割が大きかった」と言う。昭和39年(1964)東京五輪のテレビ中継でコンパニオンたちの中振袖が注目され、戦後の第一次ベビーブーム世代が成人期を迎えることから十日町産地は友禅染技法を導入し、振袖等を染めるための白生地が重視されるようになる。織機の前で立って仕事をしている男性は木村さんの父、哲夫さん(大正9年生れ)で、3巾(117㌢)の染め下用の白生地を織っているところ(昭和41年頃)。哲夫さんは川西の機屋に勤めていたが、自営の道として出機を選び、自宅1階の座敷の床をはぎコンクリート敷きにして機場(はたば)を作った。石川県から織機の製造メーカーの社員が来て、数日がかりで狂いが無いよう調整しながら組み立てた。機場には織機3台が据えられて両親と祖母が連日夜遅くまで機織りに励んだ。

 出機は機屋が集中する市内中心部の周辺地区から、出機以外に就労手段が少ない山間集落に広がっていき、市内のみの集計だが昭和38年は出機導入戸数が1672戸(従事者1958人)とすでに多いが、41年が2210戸(同2439人)で132・2%(同124・6%)と増加が進む。出機は十日町と近郊の川西や中里、松代、松之山、津南だけではなく、上越や守門、高柳、佐渡など遠方にも広まっていった。長年にわたる無数の人々の努力が実り、昭和51年(1976)には年間の産地総生産数が233万点、総販売額が581億円に達した。

                         (2020年3月28日号掲載)

昭和42〜43年頃の栄橋。三角形の構造物は水の勢いを殺ぐ「水勢」で池田さんらが工事

昭和39年、大渕新聞店の三代夫婦を先頭に渡り初め

栄橋近くに立てられた祝賀門で右は下條小の鼓笛隊

昭和31年、信濃川中洲に不時着したヘリを下條駅から運ぶ

舟運から鉄道、自動車輸送へ(後編)

栄橋の完成で渡しの姿消す

池田實さん(昭和9年生れ・十日町市下条)

 旧下條村(現十日町市下条地区)桑原と信濃川対岸の旧橘村(旧川西町)木落を舟で結ぶ「桑原の渡し」の船頭だった池田實さんは、河川舟運から鉄道、自動車への交通・物流の移り変わりを子どもの頃から見てきた。

 多くの物資や重量物を一度に運べる舟。信濃川は妻有地域と下流の小千谷や長岡方面を結ぶ物流の動脈だった。大型の舟は米200俵(1俵=60㌔)程も積むことができ、大豆や木炭、建設資材なども載せ一日がかりで下流の町に運ぶ。帰りは塩やしょう油、乾物等を積んで舟に綱をかけ10人程で曳き、4〜5日かけて妻有へとさかのぼる。

 明治期から政府が進めてきた鉄道敷設は中魚沼郡にも達し、省線十日町線(現飯山線)は昭和2年(1927)11月15日に川口〜十日町間が開通し、下條停車場(駅)も開業。隣接して丸通合同運送店も事業を始めた。そして、桑原の渡しも同年から開業し、人と物資を運んだ。

 停車場には東西二つのホームと貨車引込線が設けられ、丸通倉庫には物資が集まり各地に運ばれた。さらに丸通の隣には下條農協と米倉庫が建ち、停車場周辺は下條と川西方面の物流の拠点となった。そして鉄道は通勤通学の足としても活躍。停車場近くには駅長、助役などの官舎や保線区の人夫の詰所、石炭庫などが立ち並ぶ。十日町雪まつりでは長岡方面からの観光客は列車を利用し、車内は身動きができないほど賑わう。昭和31年(1956)には川西根深の信濃川中洲に米陸軍ヘリコプターが不時着し、その機体を下條から台車型の貨車に載せて輸送したこともある。

 やがて、交通は自動車の普及により鉄道から道路が重視されるようになる。妻有地域でも各地に橋が架けられていき、桑原の渡し近くで会津若松から柏崎へ続く国道252号線の「栄橋」建設が計画された。

 総工費は約1億7500万円(取付道路含む)、延長約402㍍、幅員6㍍で昭和34年(1959)に着工。工事には舟が必要で池田さんたちも携わる。夏場は大雨で増水の危険があるので水量が少なくて安定する冬に架橋工事は行われた。最初の年に橋の起点となる橋台を作り、翌年から下條側から橋脚(ピア)の工事を行う。まず川床に石や土砂で島を作り、その島に楕円の型枠を作り鉄筋を組んでコンクリートを流し込み、井戸でいう井桁を作る。その内部の砂利を手作業で掘り進めて岩盤に達すると発破をかけ爆破してさらに掘る。井桁の脇にはガットいう機械が据え付けられ掘った砂利や岩を穴からすくい上げる。島で作った構造物はピアを立てる基礎でウィルと呼ばれた。ウィルは掘り終わると土砂で埋め戻し、上部には1〜1・5㍍程の厚さでコンクリートを流し込み蓋をする。「1つ目のウィルは水が差し込む難工事で潜水夫が潜って発破を仕掛けた。あとの9本の工事は順調に進んだ」と振り返る。

 国道117号線沿いの現下条コンビニ店の位置から栄橋に続く取付道路(国道252号線)が作られたが、その路上では橋本体の工事が行われる。ピア1区間分、約38㍍もの型枠が組まれ、内部には通常の鉄骨に加え鋼鉄のピアノ線を縦横に張る。トラックなど重量物が乗った時に耐えられるよう上下に弾力を持たせるための工法。本体が完成すると両岸に張った鉄索(ワイヤー)に先端を吊るして徐々に前に引き出しピアに架ける。ピアの先端は平らではなく断面が半円状。「平らな面に橋本体を固定するとトラックなどで上下動すると割れてしまう。半円の上で本体をしなわせることで持たせており、よく考えられていた。橋は平らに見えるが、橋台側から見ると中央部が高くアーチを描いており、強度を高める工夫がしてある」と言う。

 栄橋は56年前の昭和39年(1964)11月12日に竣工。橋の近くには高さ4㍍程の杉の葉で全面を覆った祝賀門が立てられ、下條小学校鼓笛隊20数人と旧橘中学校ブラスバンド10人程が演奏し、下条栄町の大渕新聞店の三代夫婦を先頭に渡り初めを行った。その後、栄橋竣工祝賀協賛会と下條商工振興会が下條中学校で芸能プロによる演芸会を、夜には栄橋脇で花火大会を行い完成を祝った。「あれ程盛大な花火は初めてで素晴らしいと思った」と懐かしむ。

 栄橋竣工とともに桑原の渡しは廃業。37年間の稼働だった。妻有地域には14か所の渡しがあったが、自動車輸送の増加とともに橋の整備は進み、栄橋開通を最後に渡しはすべて無くなった。

 停車場は下条駅と名称は変わるが、自動車の普及はさらに進み昭和57年(1982)に駅は無人化、平成9年(1997)に建て替えられ小型駅舎になった。農協は全面改築、丸通の倉庫は93年間の風雪に耐えたが昨年11月に解体。当時をうかがえる建物は姿を消した。

                          (2020年3月21日号掲載)

(写真提供=池田實氏、大渕悦郎氏、木村喜郎氏、小杉貞吉氏)

下條と川西の人と物資輸送の拠点となった下條停車場

船頭は若き日の池田さん。様々な人と物資を乗せた

船頭は池田さんの父、兼作さんで農作業に向かう人々も乗せた

舟運から鉄道、自動車輸送へ(前編)

​栄橋工事に携わった最後の船頭

池田實さん(昭和9年生れ・十日町市下条)

 人や馬の背と違い、一度に多くの物資を運べる舟は古来から上流と下流の拠点を結ぶ。信濃川の河川舟運は妻有地域でも輸送の要を担っていた。明治期になると政府は鉄道建設を進め、大正中期には中魚沼地方への交通の便を図ろうと鉄道省に川口〜十日町間の十日町線建設案が浮かぶ。沿線住民らが実現に向けた運動を重ねた結果、路線敷設が決定し93年前の昭和2年(1927)に川口〜十日町間が開通し下條停車場(駅)も開業。同年、池田實さんの父親たちが旧下條村桑原と信濃川対岸の旧川西町木落を舟で結ぶ「桑原の渡し」も開業した。しかし、自動車の普及が進み輸送は鉄道から道路へ。各地で橋が架けられ昭和39年(1964)栄橋開通で桑原の渡しは役割を終えた。最後の船頭の話から交通の移り変わりを2話にわたり掲載する。

 省線十日町線(現飯山線)の建設計画では旧下條村(現十日町市下条地区)隣接の岩沢(小千谷市)と十日町間は1駅とし、設置は中條停車場とした。しかし、下條では同村に加えて川西方面旧村の橘、上野、真人の人口や旅客と輸送物資の見込みなどを詳しく調査し、中央に下條停車場設置の有益性を訴える。3年余りの折衝が実を結び、既決計画は変更され昭和2年11月15日、下條停車場が開業。村民は歓迎アーチを立て花火を打ち上げて祝った。

 同停車場に隣接して地元住民らが作った「丸通合同運送店」と旅館「竹野屋」も開業。さらに下條村と信濃川対岸の旧橘村木落の両住民8人が橘・下條停車場線渡船組合を作り「桑原の渡し」が同年から下條停車場と川西方面を結んだ。

 池田さんは子どもの頃から父、兼作さん(享年94)の小舟に乗っていた経験があり、16歳頃から渡しの「船頭」として大舟(おぶね)に乗り、親子船頭として仕事にあたった。大舟の全長は約14㍍、最大幅は2・1㍍程で大人12人が乗れた。大舟は両岸に張った鉄線の「鉄索」につなぎ「舟に当たる水の抵抗をうまく利用して櫂や竿であやつる。場所によって流れの緩急があり親父にいろいろ教えてもらった」と語る。大水が出ると川の流れが変わり、桟橋では流される。位置も変わるので大きな石を並べて舟着き場にした。

 家畜など様々な物資を運び、早朝でも深夜でも乗る人がいれば舟を出した。急患で下條の山口医院の先生を乗せたり、花嫁が乗ることも。冬、吹雪の夜でも舟を出すこともあった。夕方営業が終わり木落側に大舟があると鉄索につながれていない小舟を出す。父とともに舟に乗り舳先(へさき)でちょうちんを持つ。「暗闇では灯りが無いと舳先の向きが分からなくなってしまう。小学生の頃は寒くて嫌だったがお客には喜ばれた。川が荒れた夜は我が家に泊めてやることもあった」と語る。川西の伊勢平治の馬跳ばせ(競馬)や十日町雪まつりでは一日に百回も川を行き来した。

 また、渡しが庶民の命をつなぐ時代もあった。戦中戦後、田畑は政府が統制し米も芋も供出させられ、国民は厳しい食糧難にあえぐ。生きるため闇米を求める多くの人々が下條停車場に降り立つ。渡し舟に乗って供出の検査を免れた田がある仙田方面の奥の村々にも足を伸ばした。足を棒にして米を手にした人たちが渡舟場に戻ってくる。巡査(警官)が闇米買いの取締りに来ることがあり、巡査の姿が見えると「蜘蛛の子を散らしたようにみんな必死に逃げた」。なかには捕まる人もいて「やっと手に入れた2〜3升の米を取り上げられる若い女しょもいた。本当に哀れだった」と言う。だが、貨車1台分の闇米を買い集め下條から載せても捕まらない者もいた。

 国鉄信濃川発電所の工事が進むにつれ水量は減り、バイクや自動車の普及で舟の利用者も減っていった。(後編に続く)           (2020年3月14日号掲載)

​機屋女子社員がきものショーモデルに

昭和43年2月10日

 写真は昭和43年(1968)の第19回十日町雪まつりのきものショーで、十日町校高グラウンドの雪上ステージ。プロのモデルに加え、多くの機屋の女子社員がモデルを務めていた。

 雪上カーニバルを主管する十日町織物工業協同組合の青年部会と一緒にきものショーに携わっていた田村さんは「当初は町なかのお嬢さん12人を集めてモデルになってもらいましたが、洋服と違い簡単に着替えはできないし、大きなステージでは人数が少ないと間延びしてしまいます。機屋の女子社員にも協力してもらい、多い時には20数人がステージに立ちました」と言う。

 昭和45年(1970)の第21回祭から城ケ丘グラウンドへ会場を移転。「土曜夜のショーを見れない人たちのために、隣接する十日町小のグラウンドで当校の生徒がモデルになり、日中きものショーを行いました。下条田舎のひろばでも生徒がショーを見せたこともある」と振り返る。滝文社員で49年の25回祭からモデルを務めた木村さんは「20歳の頃、会社からショーに出ろと言われ3年連続で出演しました。仕事が終わってから十日町織物会館で2週間ほど着付けの先生から所作など教わりましたが、ポーズなど自分で考える部分が多く、本番では緊張し過ぎて何をしたかも覚えていないぐらい」。客席には数万の人々が。「アノラックを着た人の波でした」と思い起こす。     (2020年3月7日号掲載)

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