雪国妻有今昔物語

シリーズ連載

もみ焼き

昭和43年10月、津南町で、津南百年史より

 晩秋から初冬にかけての風物詩の「もみ焼き」。だが「煙公害」として禁止され、郷愁を誘う風景は見られなくなった。刈取りが終わった田や農家の軒先に薄黄色の籾殻(もみがら)を積み上げ、写真のような用具でもみがら焼きをする。この用具、ツツ(筒)とかツツッコなどと、地域によって呼び名は変わる。

 この「もみ焼き」の難しさは、燃やさずに燻る。炭焼きの籾殻版というわけだ。積み上げた籾殻内部の中心部に火をつけ、円錐形の筒をその上にかぶせ、籾殻が燻り続けるようにする。この筒は煙突の役割で、空気が抜けることで燻り続ける。

 「昔はどこの家でもやたもんだ。田んぼで焼くのや作業所の近くでもみ焼きをする家など、いろいろだった。黒くなった籾殻は袋に入れて、大事に春までとっておき、田を耕う前にまき、畑にもまいた。大事な肥料で、いまでいう土壌改良剤なんだな」。先輩農業者は懐かしく話す。

 もみ焼きの煙が晩秋から初冬のムラにたなびく風景は、もう見られない。なんとも郷愁をよぶ冬を迎える里山の風物詩が、また一つなくなった。

(2020年10月31日号掲載)

もみがら焼きは晩秋から初冬の風物詩だった。たなびく煙が郷愁を呼んでいたが、いまは見られない

道路わきに立つ「人柱伝説」の石塔

​谷内の人柱伝説

昭和34年、津南町谷内で   ​写真・文 駒形覐

 津南町谷内地内を流れている用水溝の傍らに立っている石塔には、こんな伝説が語り継がれている。

 昔、赤沢村(津南町)に、赤沢城という城があった。この城は水利が悪いため、谷内村の人を使って谷内から大八車で城まで水を運ばせた。これが重労働だったので村人は、城まで水を引けないものかと用水溝づくりに取り組んだ。ところがこれが難工事。土手を築いてもすぐに崩れてしまい、一向に仕事がはかどらない。そのたびごとに相談するのだが、名案が浮かばない。

 すると、その中の一人が「人柱を建てたらどうだろう。着物の襟が破れている者を人柱に立てればいいと聞いたことがある」と言い出した。衆議一致。ところが提言したその者の襟が破れていたので、その人が人柱となり、工事は無事に造成した。村人は人柱になったその人に感謝をし、用水溝の傍らに供養塔を立てたのである。

 こうした人柱伝説は、全国的に広く分布しており、県内各地でも聞かれ

る。

 広神村(現魚沼市)を流れる破間川の堤防に、人柱となったという旅僧の「道円塚」があり、上田村(現南魚沼市)の高棚川の堰工事でお市という人が人柱となったことから、この堰を「お市田堰」と言う。西川町(現新潟市)の「おせん地蔵」なども、こうした供養のために立てられたものと言われている。

 川の堤防や橋、城を作るときなどに人を埋めて丈夫なものを作ったという人柱伝説は、あくまでも伝説である。旅の盲僧や六部、巡礼などの遊行宗教者が流伝にあずかっていたといわれ、それが事実のように伝承されてきたのである。

(2020年10月24日号掲載)

(2020年10月17日号は休載)

赤とんぼが地域の石仏にとまる

赤トンボに想う

昭和40年頃、十日町市で   ​写真・文 駒形覐

 夕焼け小焼けの 赤ト ンボ おわれて見たの は いつの日か

 どなたもご存知、童謡「赤とんぼ」である。稲刈りの終わった田んぼの上を群を成して飛んでいたり、道の上の石や秋草の穂にじっと止まっている赤トンボを見ると、しみじみ秋を感じさせる。赤トンボの別名は秋茜(あきあかね)とも言う。

 子どもの頃は、トンボ捕りが格好の遊びの一つだったのだが、今の子供たちはどうしたのだろう、トンボ捕りをしている姿はほとんど見かけない。コロナ禍のせいで家の中で遊ぶことが多くなったからだろうか。

 平安時代の『梁塵祕抄』に「居よ居よ 蜻蛉よ 片しまいらん さていたれ 働かで すだれ篠の先に 馬の尾より合せ かい附けて 童冠者ばらに 繰らせて 遊ばせん」という美しい歌謡がある。「トンボよ動かないで幼子たちを遊ばせてやれ」という意味の歌である。昔から赤トンボは子どもたちにとっていい遊び相手であったのだ。

 「トンボ トンボ 止まれ おらのカカの 乳くれら(旧中里村土倉)」と唱えながら指

先で円を描いてそっと近

ずくと、トンボも目を回

わすみたいで飛び立つの

忘れているから、ヒョイ

と押さえることができた

ものだ。

 日本昆虫学のパイオニア・松村博士が「トンボの多い国は栄え、少ない国は滅びる」と言っていた。昭和30年代の頃だろうか、野山の乱開発が横行し、田畑では農薬類が多量に散布されたため、ホタルやトンボ、川の魚などが激減してしまったことがある。近年になり改善されてきたのだろう、トンボやホタルは増えてきたみたいだ。

 肩に来て人懐かしや赤 蜻蛉   (夏目漱石)

(2020年10月10日号掲載)

日本スカイスポーツ振興会の協力でデモフライトするパラグライダー

高原を飛ぶ

1991年・平成3年9月30日

 ◎…いまでは多くの愛好者がいるが、28年前はまだ先駆けだった。錦秋に染まり始めた9月下旬、津南町の高原地・マントパーク津南(現・マウンテンパーク津南)は格好のパラグライダーの飛行地だった。この写真は1991年・平成3年9月30日、同津南で当時の国内のトップメーカー「ファルホーク社」が同社の専属プロ・佐藤清孝氏によるデモンストレーションを行った時の様子。同地からは国内有数の河岸段丘が一望でき、その広大な段丘に向かって飛び立つ感覚は最高。「ここは眺めが良く、パラグライダーには最適な場所ですね」とフライト感想を話している。

 ◎…パラグライダーは現在も人気で、国内では各地にフライト地があり、県内では弥彦などが知られているが、津南町の沖ノ原もその一つ。地元愛好家グループが風を受けて、河岸段丘の突端から飛び上がっている。パラグライダーは風を受け、その風を利用しながら長時間、空を飛ぶことができるため、「鳥になる」感覚が体感できる。28年前のデモフライトは、日本スカイスポーツ振興会の協力で実施し、同津南をパラグライダーの地にしようと当時の経営会社が打ち出した。だが、なかなか知名度が上がらず、立ち消えになってしまった。これからの紅葉シーズン、それを空から見ることができれば、大きな観光要素になる。当時、もう一つの構想があった。それは『飛行船遊覧』。「マントパークとグリーンピアの間を飛行船で飛ぶ。最高の遊覧飛行になる」。歩くくらいの速さで飛ぶ飛行船。いまなら実現できる?

(2020年10月3日号掲載)

40話以上を語った内山マチさん

妻有の語り部

昭和34年7月、津南町谷内で  ​写真・文 駒形覐

 妻有郷は民話の宝庫と言われてきた。盆地で豪雪地、そして稲作地帯という環境が、多くの民話を伝えてきたのだろう。

 人から人へ、口から口へと語り継がれてきた口承物語の民話には、「伝説」と「昔ばなし」の二

つがある。伝説は「一族または集団の出自や信仰事実を後世に伝えるために語られるもの」だから、信じられやすいように具体的な事物や事象に結びつけて語られている。「七ッ釜と片目の魚」などは、その好例である。これに対し昔ばなしは「トント昔があったと」から始まって、「いちごさかえた」で終わるものが多い。「桃太郎」や「勝々山」のように人も動物も植物も、そして鬼まで登場して楽しく話は展開する。伝説とは異なり具体的な事物や事象と結びつかない。語り方も伝承のままで一定不変、話の内容も話形も変らないのが昔ばなしである。なお、「いちごさかえた」とは、一期(いちご)が栄えたと言うことで、「めでたし、めでたし」と言う意味である。

 伝説の語り手は男の方が多く、昔ばなしは女の人が多い。子育てが関係しているのだろう。妻有郷では話すことが好きで、数多くの話を覚えている男女のお年寄りをカタリジサ、カタリバサと呼んでいる。かつては県内で百話以上も話せる語り部的な伝承者が各地に居たものだが、妻有郷にも何人か居たはずだ。

 昭和30年代の初め頃、津南町谷内の内山マチさん(明治14年生れ)を3回ほど訪ね、昔ばなしを40話ほどお聞きした。記憶も言葉もはっきりしたカタリバサで、もっと探訪を重ねたら、それこそ百話クラスの語り部であったにちがいないと、今頃になって思い出している。

(2020年9月26日号掲載)

1991年・平成3年の「冷害」は戦後最悪。9月中旬を過ぎても稲穂の実入りはなく青立ちしていた

​冷害、食うコメがない

1991年9月21日、津南町大葉地区で

 1993年・平成5年は「大凶作」だった。戦後最悪といわれた昭和28年冷害を上回る冷害に襲われた妻有地方。特に標高が5百㍍以上では9月中旬を過ぎても、田の稲は青立ちしたまま。稲穂は受粉ぜす空の状態で、収穫期を迎えた時期だが青々と立ちつくす稲が、秋風に軽々と揺れていた。まさに冷害の典型「青立ち状態」の田が広がっていた。

 この写真は津南町の標高6百㍍余の大場集落。すぐ上にニュー・グリーンピア津南がある釜川上流地域。当時は16世帯が暮らし、集落を囲むように田が広がっていた。本紙の冷害リポート取材に、同地で水田1・8㌶を作る福原常男さん(当時54)は話している。「今年、2条刈りのコンバインを買ったばかりだし、2年前には住宅も新築した。まったくあてが外れた」と、がっくり肩を落とす姿と青立ちの水田のこの写真、冷害の深刻さを物語る。

 この平成3年冷害は、全国的に深刻な事態を招き、妻有地域でも「救援米活動」に取り組み、山間高冷地に米を贈る活動が広がった。戦後最悪となったこの年の冷害。専業コメ農家の話が載っている。「収穫ゼロだ。生まれて初めて人のコメを買って食った」。その後、品種改良が進み、天候に影響されないコメ作りになっているが、今期の7月の長雨、8月の連日の猛暑など天候不順で、今期の田は「倒伏していない田んぼを探すのが難しいくらい、みんな転んでいる」。最盛期を迎える刈取り。長雨が降らないことを祈るだけだ。

(2020年9月19日号掲載)

入会山の草刈り

昭和35年7月、旧中里村で  ​写真・文 駒形覐

 夏土用の時期は、田仕事が一休みするときなので、農家ではこの時期になると堆肥用や家畜の飼料用にする草刈りをしてきた。

 田の畔(くろ)の一番刈りは田かき前に行っており、そのときの草は肥料として田に撒いており、二番刈りは夏の土用に入る頃から始めており、家畜の飼料用として干草にしておいたものである。

 農家にとって草刈りは欠かせない。かつては一村あるいは数村落で共有をし、ムラ人みんなが共同作業権を持った里山があり、それを「入会山(いりあいやま)」と呼んでおり、肥料用や牛馬の飼料用の野草、粗朶(そだ)や薪炭の燃料材を採取してきたものである。しかし、ムラ人みんなが平等に参加し採取できるようにと、各種の制限がそこに設けられていた。

 規制では、どこのムラでも一定の期日を定め、その時期がくると惣代(区長)が採取開始日の告げを出すことになっており、その日を「山の口」と言っていた。『中魚沼郡誌』には「野草は田休、カチ木(刈敷木か)は入梅、刈干草は土用後、ホトラ(燃料用矮少の萌芽樹)は秋岸等の如し、而して多くは一戸1人、若くは一日一駄、又は両三駄と制限を附して、恣にすることを許さざるの如し」と記されており、各種の山の口があり、乱採取による山の荒廃を防いでいたことが分かる。ムラによっては馬を乗り入れての「乗り刈り」を禁じ、人力による「背負い刈り」だけにし、草刈り量を制限しているところもあった。

 こうした入会山における山の口慣習は、昭和30年代初めの頃になると、どこのムラからもみられなくなった。

(2020年9月12日号掲載)

草刈りした野草を「草しょい」して運ぶ。家畜の飼料用干草や肥料用に使う。相当の重さが見てとれる

台風シーズン到来。昨年10月13日の信濃川大増水は過去最多の水量を記録。津南町足滝は水没(左が信濃川、中央が堤防、水田は完全に水没、家屋も浸水)

台風シーズン到来

2019年10月13日午前9時半

 ◎…わずか1年前のことだが、ずいぶん遠い過去の事に感じるのは、今年2月から広まった「新型コロナウイスル」の感染拡大で、「これまでの価値観が一変した」ことも影響している。さらに、新コロナによる4月からの3ヵ月間は、時間をリセットしたように、それまでの時間の流れが、別の時間の流れに置き換えられたように、「世の中一変した」感じだ。だが忘れたならない水害は、ほんの1年前に発生している。

 ◎…少雪で年があけ、早い春の訪れに、異変を感じる兆候はあった。雪がない「雪国の春」は、新コロナばかりではなく、気候変動への不安感を募らせている。「少雪の年、夏は涼しい年、7月中に台風が発生しない年」などが重なると、その年の秋は「要注意」という。気象予報は「9月に台風が連続発生」するという。事実、先月下旬から立て続けに台風が発生し、これから本土を照準に合わせている台風10号の動きが気になる。

 ◎…農業者は話す。「今年は7月、8月の長雨で田んぼが固くならない。収穫前のここに台風が来たら、ベタベタ状態になる。とはいえ、まだ刈り取るには早い。なんとかそれてほしい」。その思いが台風に通じるかどうか。すでに長岡地域では稲刈りが始まり、今週末には最盛期を迎えるという。この写真は、まだ記憶に新しい信濃川の大増水だ。上流の西大滝ダムの観測では、過去最多の毎秒8872㌧が流れたという。この数字のすごさは、ここ県境地域の大増水、さらに津南町巻下、十日町市流域での増水が、それを物語る。今年も警戒すべき季節がやって来ている。

(2020年9月5日号掲載)

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