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雪国妻有今昔物語

シリーズ連載

古来から唄い継がれている「からす踊り」。唄の掛け合いが延々と夜遅くまでつづいた

からす踊り

昭和46年9月、秋山郷大赤沢で、津南百年史より  文 駒形覐

 「からす踊り」に初めて出合ったのは秋山郷小赤沢、昭和34年頃のお盆のときだったと思う。盆踊りにはゆったりした踊りが多いのだが、からす踊りは割りと活発な動きで単調、素朴な感じなので、見ている踊りを知らない人もいつの間にか輪の中に誘い込まれる。

 〽(音頭)踊らねか からす踊りを踊らねか

 〽(返し)踊らねか からす踊りを踊らねか

 〽おらうちの衆は 嫁とることを忘れたか

 〽忘れはせぬが 稲の出穂みて取ってくろ

 唄は音頭と返し(踊り手)の二つの部分からなっており、それが尻取り形式で物語り風に展開していくから、誰もが歌い踊り続けられる。からす踊りは盆踊りの原点ともいえる。

 〽来い来い小女郎 小松原まで来い小女郎

 〽来いとはなんだ 人の大事な生娘を

 〽生娘ならば 石の唐櫃に入れておけ

 〽石の唐櫃は七色八色 色で攻めたら開くだろう

 それにしてもからす踊りとは、珍しい名称である。往古、秋山郷に平家の落人が住みついたとか、小松原に小松内大臣重盛の末孫がいたとかで、そこの野武士が身分を隠すため、黒頭巾をかぶって踊りに加わったことから、その名がついたという伝説があるが、本当のところは分からない。

 からす踊りは、隣接の北信濃の北東部、下高井郡から飯山市にかけて分布、伝承しており、妻有地方では秋山郷から津南町の各所、十日町市では中里・水沢・川治と川西地区に点在して伝わっている。

 今年はコロナ禍で各所の盆踊りは中止になってしまったが、早く感染の収束を願い、来盆でのからす踊りを待ちたい。

(2020年8月29日号掲載)

(2020年8月22日号は休載)

1943年・昭和18年の大井田国民学校4年生68人。うち23人が東京からの学童疎開の子たち(上段2人目が池田氏、2列目左から5人目が小宮山氏。写真提供・池田友好氏)

写真を見ながら当時の様子を語る小宮山三次氏(今月8日)

集団疎開

 いつもの年ならお盆の13日から17日頃まで盆踊りの輪が各所に立っているのだが、今年は新型コロナ禍のため中止になるところが多くなり、静かなお盆になりそうだ。

 妻有地方の盆踊りは「三階節」「甚句」「大の坂」「ヨイヤナ」「からす踊り」など伝承の民謡と「十日町小唄」が踊られているが、妻有発祥の「新保広大寺」(以下、広大寺節と略記)はあまり登場していないみたいである。

 広大寺節の発生は元禄年間(1688〜1703)、旧下条村新保の禅寺・広大寺を舞台に広がったトラブルが、はやり唄となったもの。これが越後ゴゼ(瞽女)や旅芸人たちによって越後のみならず県外各地、北は北海道から南は九州まで伝えられ、それぞれの土地の民謡へと転

 戦争の一番の犠牲者は子どもたちだろう。ここに写る68人の子たち。この中の23人は東京からの集団疎開の子たち。昭和18年(1943年)から終戦までの3年間、地元の子たちと大井田国民学校で学んだ。

 「戦時下の学童疎開の写真が、たった1枚あった」。前毎日新聞新潟支局長の池田友好さんが、終戦日・8月15日に合わせ寄せた。池田さんもこの写真のひとり。いまは新潟市暮らしだが、この地で暮らし続ける同級生の小宮山三次さん(85)が思い出話しを語った。

 戦局が不安定になった昭和18年、空襲を避けるため東京から地方への集団疎開が始まる。十日町市の大井田国民学校は、東京都葛飾区の小松国民学校の集団疎開を受け入れた。宿舎は地元の真浄院。「この写真は毎年撮る学年写真だと思う。写真を撮る時は決まった服があり、みんなそれを着ているようだ。この子は石川、これは前田、だったかな」、顔を見れば名前が出てくる。75年前の記憶がしっかり残る。

 「正月の2日間だけ地元の民家に泊まりに来たが、うちにも兄弟2人が来た。お餅を出すと、本当にうまそうに、喜んで食べていたのを思い出す。農家の手伝いにも来て、秋の大豆の収穫の時、取った豆を手に分けてやると、その生の豆を食べたんだよ。あの固い、青臭い豆を。それほど、ひもじい思いをしていたんだと思った。あれはよく覚えている」。

 そして終戦。「そのあと、すぐに東京に帰ったようだ。お別れの会など開いたのかどうか記憶にないな。ただ9月になって、学校すれすれにB29が1機飛んできて、珍しさがあって騒いだら、ここにも写っている川崎校長が全校をグラウンドに集め、『負けたのに、なにが嬉しいんだ』と怒ったのを覚えている」。

 ここに写る子たちが40代になった時、四日町・やまだ屋に集まったことがある。「手紙交換など交流が続いていたとは聞かないが、宿舎の真浄院の仲介なのかどうか、再会できたのは嬉しかった。子どもは戦争の被害者だ。それにしても、ひどい時代だった」。ここにも、貴重な歴史の1ページがある。

訛していった。

 県内では紫雲寺町の「新保幸代寺」、阿賀野市笹神の「古代神」、五泉市村松の「新保皇大寺」、燕市の「新保公太神」、糸魚川市の「古代詞」など異なる文字が当てられているが、いずれも広大寺節系の民謡である。

 県外にも富山県の「古代神」、岐阜県の「こだいじ踊」、京都や広島の「こだいじ」、島根県の「こだいず」など、広大寺節系とみられる民謡が伝承しており、また群馬県の「八木節」、「秋田県の「秋田の飴売節」、青森県の「津軽じょんがら節」なども、その源流は広大寺節だと言われている。

 広大寺節を踊れる団体や人が少なくなった昨今だが、地元の下条地区で昭和46年に「新保広大寺節保存会」が発足し、伝承と後継者育成に努めており、下条中学校でも同会の指導を受けながら、伝承活動を続けているとのこと、期待したい。

(2020年8月15日号掲載)

保存会の指導を受け演舞する下条中の生徒たち

民謡「新保広大寺」

2018年、柏崎市での第60回関東芸能大会で  ​写真・文 駒形覐

 いつもの年ならお盆の13日から17日頃まで盆踊りの輪が各所に立っているのだが、今年は新型コロナ禍のため中止になるところが多くなり、静かなお盆になりそうだ。

 妻有地方の盆踊りは「三階節」「甚句」「大の坂」「ヨイヤナ」「からす踊り」など伝承の民謡と「十日町小唄」が踊られているが、妻有発祥の「新保広大寺」(以下、広大寺節と略記)はあまり登場していないみたいである。

 広大寺節の発生は元禄年間(1688〜1703)、旧下条村新保の禅寺・広大寺を舞台に広がったトラブルが、はやり唄となったもの。これが越後ゴゼ(瞽女)や旅芸人たちによって越後のみならず県外各地、北は北海道から南は九州まで伝えられ、それぞれの土地の民謡へと転訛していった。

 県内では紫雲寺町の「新保幸代寺」、阿賀野市笹神の「古代神」、五泉市村松の「新保皇大寺」、燕市の「新保公太神」、糸魚川市の「古代詞」など異なる文字が当てられているが、いずれも広大寺節系の民謡である。

 県外にも富山県の「古代神」、岐阜県の「こだいじ踊」、京都や広島の「こだいじ」、島根県の「こだいず」など、広大寺節系とみられる民謡が伝承しており、また群馬県の「八木節」、「秋田県の「秋田の飴売節」、青森県の「津軽じょんがら節」なども、その源流は広大寺節だと言われている。

 広大寺節を踊れる団体や人が少なくなった昨今だが、地元の下条地区で昭和46年に「新保広大寺節保存会」が発足し、伝承と後継者育成に努めており、下条中学校でも同会の指導を受けながら、伝承活動を続けているとのこと、期待したい。

(2020年8月8日号掲載)

1954年8月19日の松之山大火直後の温泉街(松之山ストーリーズより)

松之山大火

 「湯本の大火」と呼ばれた松之山温泉・温泉街の大火から8月19日で66年になる。

 お盆が過ぎた1954年・昭和29年8月19日未明、温泉街の奥の温泉旅館から出火。米屋、白川屋、野本屋、和泉屋、千歳館、十一屋商店など旅館6棟、共同浴場、民家など計25棟を全焼し、約3時間後の夜明け前ようやく鎮火した。当時500人余の宿泊客がいたようで、温泉街はまさに騒然となった。

 松之山温泉のウェブサイト「松之山ストーリーズ」に、当時の貴重な記録写真と共に地元関係者の証言が載っている。この時、運悪く台風が近づき、強風の中の出火で、瞬く間に温泉街は火の海に包まれたという。いまのような消火設備や消防署体制がない時代、地元住民の消防団が頼りで、強風で火の勢いを増すなか、地元消防団の懸命な消火活動が続いた。幸い死傷者はいないが、推定被害額は当時で1億3千万円と松之山ストーリーズにある。いまの価値では約30億円になる被害だ。

 元毎日新聞新潟支局長の池田友好さんも取材で現場に駆け付けた。

 「当時、松之山温泉は東頚城郡で私の取材エリアではなく、高田だったか、直江津通信部だったかの管内だった。当時、朝日新聞十日町通信員だった高沢巳津男氏(故人)の実家が松之山温泉街の郵便局だったので、すぐ彼の所に電話が入った。私も新潟支局から応援取材を受けていたので、彼と一緒に十日町消防署の消防車に便乗して駆けつけた」。高沢氏の実家の郵便局は幸い延焼を免れた。

 その日、池田さん撮影の写真フィルムは支局に送ったので手元に残っていないという。この写真は、その後の焼け跡復興工事いう。あの大火から66年、みごとに復興した松之山温泉だ。

(2020年8月1日号掲載)

大火後、復興に取り組む住民たち(1954年9月、池田友好氏撮影)

水しぶきをあげる「岨滝」の激流。いまは大きな石がその名残りを見せる

信濃川の岨滝

昭和34年撮影  ​写真・文 駒形覐

 「岨滝(そたき)」の名称と場所をご存知だろうか。『中魚沼郡誌』(大正8年刊)は岨滝について、概略次のように記している。

 [外丸村字押付と下船渡字割野との間を流れる信濃川に、急激な流れとなっている箇所があって、岨滝と言っている。川幅は百閒ほど。そこに岩石は暗礁し横たわっているので、流れが激しくぶつかり奔波四散、壮観である。魚族は遡ることができないから、好漁場となっている』

 岨滝の写真を撮ったのは、今から60年ほども前のこと。当時、信濃川の漁業を少し調べていたので岨滝まで行き、地元の人から川漁について種々お聞きした。岨滝は好漁場であったから一日300匹ものサケが獲れたとか、「早馳け」と言って、朝獲れたサケを夕方までに春日山の上杉謙信公まで届けたり、江戸時代には「はつな上げ」と称して初漁のサケを幕府に献上し、さらに明治初年の頃は「初サケ」を県庁に届けたものだという話に興味を覚えた。

 鈴木牧之著『北越雪譜』(天保8年刊)にも、「千曲川の総滝」の見出しで岨滝を「割野村の近くを流れる千曲川(信濃川)に、竜が寝そべっているような形の岩石があるので流れは滝となり、サケはここから遡ることができないので、漁師たちは柴橋を架けて掻網(かきあみ)漁をしている」と記している。

 その後、岨滝まで行くことはなかったが、あの急流はどうなっているだろうと思い出すことがある。地質学者の島津光夫著『牧之と歩く秋山郷』(平成7年刊)には「現在は信濃川の水量が少なくなり、滝は砂礫で覆われてしまい、渕はあるが、往時の岨滝の面影はない」と書かれている。

(2020年7月25日号掲載)

第1回大地の芸術祭の蔡國強氏作品・龍窯(ロンヤウ)に火入れ、「魂を入れる」

龍(ロン)の出現

2000年7月21日、津南町上野で、本紙撮影

 世界的な知名度で国内外から50日間に55万人余が来訪する「大地の芸術祭」は来夏、第8回を迎える。その第1回大地の芸術祭の開幕翌日、この「龍(ロン)」に火が入った。世界を代表するアーティスト「蔡國強」氏の作品「ドラゴン美術館」は、第1回展の象徴的な作品。その後、蔡氏は大地の芸術祭で壮大な作品展開や世界に向けたメッセージを発信し続け、「越後妻有アートトリエンナーレ」を世界に広め「ECHIGO TSUMARI」の固有名詞を世界ブランドにしたアーテイストのひとり。

 2000年7月14日号本紙は、ドラゴン美術館の製作を報じている。蔡氏の言葉が載る。「今回は縄文がテーマ。縄文文化は火と土で、焼き物である。地域の残るものを作りたいと考え、龍窯(ロンヤウ)でドラゴン美術館を作る。千年前の作り方と同じに作り、これそのものが文化財。この作品からパワーを感じるのは、その素材すべてが自然のものだから、素材の強さ、外観の強さ、その背景の文化の強さがここにある」。蔡氏の言葉から、この作品への思いの強さを感じる。

龍窯は中国で実際に数年前まで使っていた35㍍の登り窯を、中国・福建省からそのレンガ220㌧すべてをそのまま津南町上野に運び入れ、再現した作品。蔡氏が「風水」で設置場所を決め、1ヵ月余を費やして完成させ、7月20日の大地の芸術祭開幕式の翌21日夕、国内外からの作家や来訪者が見守るなか「火入れ」をした。

 火入れは窯の強度を増すためと『魂を入れる』ため。蔡氏は語っている。「日本でもそうだが、いま各地で西洋的な美術館ができているが、その対極にあるのが、このドラゴン美術館。自然そのままの石と土だけ。この場所から見える津南の大自然、そして美術館の中に入ると全く違った世界。風水では、この地は『気』が通る場所。20世紀から21世紀への転換期に向けた作品。この津南の地をとても気に入っている」。20年の歳月が流れた。年々歳々、風化していく時の流れも、この龍窯の表現になっている。

(2020年7月18日号掲載)

秋山郷小赤沢で再現された「カンノ焼き」

妻有のカンノ

1976年(昭和51年)8月1日、栄村小赤沢で  ​写真・文 駒形覐

 原野や山林の草木を刈り払って乾燥をし、それを焼いて短期間だけ耕作畑にする農業を、一般的には焼畑と言っている。妻有地方ではそれを「カンノ」とか「カンナ」と呼んでおり、草木を刈ることをカンノ刈り、焼き払いをカンノ焼きと言ってきた。山間の集落では、古くから行われてきた農法であるが、先の大戦後あたりから急速に消滅するようになり、今ではもう見ることはない。

 江戸時代の秋山郷などでは、耕作地のほとんどがカンノの畑であったから、常に耕作地と林野とは入れ替わったものである。ムラ共有地で都合のよい所を選んでカンノをしていたが、昭和30年以降になると次第に減少していくようになり、今ではまったく途絶えてしまった。なお、掲載した写真は、昭和51年8月1日、東京学芸大の調査活動で小赤沢で行ったカンノ焼きの再現を撮ったものである。

 カンノ焼きには二通りある。8月上旬にカンノ刈りをして8月半ば過ぎにカンノ焼きをする夏カンノと、前年秋にカンノ刈りをしておき、翌春5月半ばに焼き払う春カンノとがある。妻有地方では主として夏カンノの方が多かった。

 秋山郷では、古くは春カンノもよく行っていたようで、文政11年(1828)に秋山を訪れた鈴木牧之は、その著『秋山記行』で小赤沢の春カンノについて詳しく書いているが、時代が下がるにしたがって、夏カンノが主となっていったようだ。

 カンノでは1年で放置することが多いが、地味の豊な土地では5、6年も続けて耕作していた。秋山郷では1年目がソバ、2年目にアワ、以降はキビやヒエ、イグサなどの種蒔きをしていた。

(2020年7月11日号掲載)

国宝出土の様子を再現した復元モニュメント。逆さ状態で出現。底部は後日発見され残存率95%の極めて貴重な縄文火焔型時となった。

​国宝発掘、現場を再現

2000年6月4日、本紙撮影

 縄文期では新潟県内唯一の国宝を常設展示する新十日町市博物館は6月1日開館、国宝展示室でスポットライトに輝いている。この縄文火焔型土器の国宝指定の決め手になったのは残存率の高さ。「95%」というほぼ完ぺきな状態で出土。その発掘当時の様子を再現したモニュメントを発掘現場の十日町市中条「笹山遺跡」に設置したのは、20年前の2000年6月4日。いまも「笹山縄文館」の脇にあり、セラミック製の復元モニュメントは、掘り出された当時をリアルに再現する。

 この6月4日は、前年1999年4月に国宝指定後の1周年記念式の日。モニュメントお披露目の記念日。地元住民など多くの来場者が詰めかけ、当時発掘を手伝った人たちも集まり、「そうそう、こんな風に逆さまになっていたっけね」など『国宝』出土の思い出を語り合った。当時の本田欣二郎市長は「先人が残してくれたものが5000年ぶりに世に出てきた。この宝物を後世に末永く伝えたい」と語った。

 当時、発掘担当の渡辺正範さん(現市総務部長)は本紙寄稿の回顧録(2017年3月18日号)で記す。『渡辺さん、まわったよ! と和田アサさんのいつもの元気な声が後ろから響きました。後に国宝となる火焔型土器No1が5000年の眠りから目覚めた瞬間です』。まわった、というのは円形断面がそのまま出土した状態のこと。1982年・昭和57年7月8日午後出土。この日は発掘作業の最終日だった。一日違っていたら「国宝」の目覚めはなかった。

 逆さ状態で見つかった国宝。だがその底部はなかった。隣接の出土資料の調査ですぐに見つかった。それは他の土器片とは『傑作と習作』の違いほどの造形美だった。驚異的な残存率95%の縄文火焔型土器が復元され、その造形美と共に「国宝」指定となった。その雄姿は、新十日町市博物館・国宝展示室で間近で見ることができる。

(2020年7月4日号掲載)

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