01.11まさもと_web広告.jpg
01.11.16ももたろう_web広告.jpg
01.11.16ペペロッソ_web広告.jpg
高見石材_web広告.jpg

雪国妻有今昔物語

シリーズ連載

男着の山ぎもん

妻有の山ぎもん

昭和34年7月、津南町谷地で  ​写真・文 駒形覐

 いささか地味な話になるが、妻有地方でかつて見られた農家の仕事着について記してみたい。

 妻有地方では、着物を『きもん』と言っている。種類として晴れ着や余所行き用の「いいきもん」と日常着ている普段着があり、その普段着に「家ぎもん」と「山ぎもん」の別がある。家ぎもんは家の中で着て過ごす「長ぎもん」で、仕事をするときは山ぎもんである。「山ぎ」「山はんてん」などとも言っている。

 男着の山ぎもんは、上衣と股引(ももひき)の二部からなり、布地は木綿の紺か縞(しま)で、暑い時季は単衣で前合わせ。明治の頃からボタンの付いた「山シャツ」を着るようになる。春や秋の肌寒い時は「山あわせ」、寒くなれば「袖なし」を重ね着した。きもんを大事にしてきたから、切れた所は古布の小切れを継ぎはぎに刺し縫いして重ねたから次第にぶ厚くなり、これを「ぶいとう」とも言っていた。下衣は長股引と半股引があり、田に入るときは半股引のことが多かった。

 女着の山ぎもんは、縞より染絣(かすり)のものが多かった。暑い時の上衣は半袖で腰丈の単衣物。下は膝あたりまでの腰巻をし、その上に前掛をした。寒くなれば重ね着をする。昭和7、8年頃から「サンパク」と呼ばれた股引状の下衣が広まった。脚部が細くて腰部がゆったりしているから、きもんや腰巻を中に入れることができ、格好は悪かったが機能的だったので流行った。さらに先の大戦の頃になると「もんぺ」が普及するようになり、これは今も続いている。

 昭和40年代の頃からだろうか、こうした山ぎもんの姿は見られなくなった。

(2020年6月27日号掲載)

女着の山ぎもん

​季節により仕事着の「山ぎもん」は変わった。昭和40年代の頃から山ぎもんは見られなくなった。

子守唄を聞かせるが、なかなか眠らない子。次々と唄の歌詞が変わっていく

アカショウビン(赤翡翠)

2005年7月7日早朝、津南町上郷で、本紙​撮影

 野鳥観察会で一番人気はこの鳥「アカショウビン」。赤翡翠と表す。「特徴的な鳴き声は早朝のブナ林などで聞かれるが、その姿はめったに見られない。見られても望遠鏡でないと見られない」と言われるほどの『憧れの野鳥』。レッドデータブックに載る貴重種。原色の姿がよく知られる翡翠(カワセミ)の仲間だが、そうそう人の前には現れないまさに「幻の野鳥」。

 このアカショウビンが、なんと民家のガラス窓を突き破り、生きたまま保護されるという「大事件」が発生した。

 2005年7月7日。七夕の早朝、本紙に電話が入った。「真っ赤な初めて見る鳥が家に飛び込んできた」。連絡は津南町上郷の朴木沢、半戸和正さんから。駆けつけると野菜収穫箱に、それはいた。当時すでにカラー化していた本紙1面で報じた。『朝6時半頃、台所で家族で朝食を食べている時、突然、ガシャーンと音がして、行ってみるとアルミサッシの窓ガラスが割れ、真っ赤な鳥がいた。子どもが図鑑で調べるとアカショウビンだった。初めて見たが、きれいな鳥だ。光の加減でビロードみたいに輝く』と驚きのコメントが本紙2005年7月8日号に載っている。

 アカショウビンの分類は、ブッポウソウ(仏法僧)目カワセミ(翡翠)科アカショウビン(赤翡翠)。中国など東南アジアからの渡り鳥。その鳴き声は『キョロロロロー』。松之山は営巣地の一つで自然博物館「松之山キョロロ」はこの鳴き声から命名。 写真の通り真っ赤だが、腰部分にコバルトブルーのワンポイント羽があるのが特徴。めったに見ることができない希少種の野鳥。この「七夕の朝の訪問者」はその後、十日町保健所に連絡、ケガなど身体を点検し放鳥された。この鋭いまなざしが、なんとも印象深い。

(2020年6月13日号掲載)

子守唄を聞かせるが、なかなか眠らない子。次々と唄の歌詞が変わっていく

ババサの子守唄

1960年(昭和35年)、旧川西町仙田で

 昨今、幼な子を背負った子守姿を見かけることはなくなった。ベビーカーや自家用車を利用しているからかもしれない。

 妻有地方では、子守のことを「もりっ子」と言っており、「ババサ(孫婆)」のいる家では、もっぱらババサがもりっ子の役をしてきた。

 『ねんねんころりよおころりよ この子が寝ったらなにくろば あったけマンマにトトかけて  さっくりさらりとやしなおか(旧水沢村市之沢)』と歌ってみるのだが、なかなか眠らない。ババサの方が疲れてくる。『ねんねよい子だねんねしな ねったらネズミに引かせよか 起きたらオイヌに食わせよか(旧川西町仙田)」と、少々おどかし気味に歌ってもみるのだが、効果なし。あきらめたババサは『ねんねんネコのけつにカニが入りこんだ おっかさんたまげて茶こぼした(旧水沢村中在家)』と、おどけた調子の子守唄になってくる。

 それにつけても不思議に思うのは、たわいもないような妻有の子守唄だが、これとまったく同じ文句の唄が県内外の各地にも残っていて、口頭伝承に興味を覚える。

 ところで幼な子をおんぶするときは、広帯木綿の帯で子どもの尻の部分が広まるようにして結び、その上から袖なしか背中の部分だけが当る「亀の子」などを羽織っている。 

 寒い時などは薄着のまま幼な子を、もりっ子自身の肌につけて背負っている。これを『ポチャンコおんぶ』と言っており、なかなか温かい。幼な子が少しくらい風邪気味であっても、ポチャンコおんぶをしてやれば、すぐに治ってしまうと言われていた。

(2020年6月13日号掲載)

真っ赤な和傘、新緑、渓谷の残雪。絶景の中で「野点」

鳥甲山と野点

2006年6月4日、秋山郷のよさの里で、本紙撮影

 ◎…真っ赤な和傘が、新緑に映える。前方は秋山郷の雄峰、鳥甲山(2069㍍)。鳥が両翼を広げた姿が迫るここは秋山郷「のよさの里」。その庭園広場で開かれた「野点」。20年前の2000年6月4日。「宗偏流洗心会」の津南班が企画し、十日町の洗心会会員を招き、40人余の野点となった。鳥甲山の谷筋には雪が残り、和傘の赤、新緑と共にみごとなコントラストを見せる。

 ◎…この日の野点では、本場宇治茶の抹茶、苗場山登山道入口である隣集落の小赤沢の清水を使い、高麗製茶碗で参加者一人ひとりをもてなした。鳥甲山のピークは少し雲に隠れているが、初夏を思わせる陽ざしながら、残雪の山からは涼風が流れ、絶景のロケーションのなか、最高のお手前となり、まさに「一期一会」の世界。

 ◎…のよさの里は、栄村上野原にある。だが現在は休業中。前面に鳥甲山がせまる景観が人気で、標高も1000㍍余。露天風呂からはすぐそこに鳥甲山の雄峰が、夜は漆黒のなか満点の星空がせまる。かつては冬季も営業し、厳冬の秋山郷を訪ねる写真家など常連客があり、冬の宿の拠点にもなっていた。この自然のロケーションは秋山郷のなかでも群を抜く眺望で、のよさの里は、その絶景を独り占めしている。「のよさ」は、秋山郷に伝わる民衆の唄。哀愁おびた節回し、ゆったりと舞うように踊る。20年前の野点だが、「3密」に無関係の解放感が、この一枚にある。

(2020年6月6日号掲載)

すっぽりと背中におんぶされ、「子守唄」が聞こえてきそうだ

伝承の子守唄

昭和40年頃、旧中里村倉俣で  ​写真・文 駒形覐

 以前に本欄で「妻有の子守唄」を取り上げたが、いまごろになって格好の子守の写真が出てきたので、再度その続きを述べてみる。 

 子守唄には、「眠らせ唄」「遊ばせ唄」「子守仕事の唄」の三通りがある。

 「眠らせ唄」には、どなたもご存知かと思う「ねんねんころりよ おころりよ」から始まり、里の土産にもらうのが「でんでん太鼓に笙の笛」の子守唄がある。江戸中期の行智編『童謡集』 にも「これは寝させ唄也」として同じ唄を載せており、昔から広く歌われてきた子守唄である。

 「遊ばせ唄」には「お月さんいくつ 十三七つまだ年若い あの子を産んで 誰にばしょ お万にばしょ」から始まり、お万が油をこぼし、その油をなめた犬を太鼓に張ってドンドコドンと、問答風に続ける長い文句の子守唄がある。子守をする娘たちは、この唄を歌いながら手まりやお手玉遊びなどをしていた。今ではこの唄を知る人は、高齢者だけになってしまったかもしれない。

 「子守仕事の唄」は少々長くなるが、載せてみる。「よいよい横島のがんがらおよし およしが大きくなったら上田へやろか 上田はちらちらちりめんじたく 子守は楽のよで辛いもの おっかさんに叱られ子に泣かれ 早く十二月が来たならば 風呂敷包に下駄はいて おっとさんさいならまたきます おっかさんさいならもうこない そんなこといわずにまたおいでいやなことこうせん赤めのめ」(旧中里村荒屋)。

 貧しさ故に子守奉公に出された昔の娘たちの辛さ、それをまぎらそうとする心情の子守唄である。

 この頃はどんな子守唄を歌うのかと近所の若いお母さんに尋ねたら、「特に歌ってはおりません」とのことだった。

(2020年5月30日号掲載)

八角形の「わく・ころがし」。この間隔により、苗を植える間隔が決まる。貴重な農具であるが、今はインテリアに使われている。

「わく・ころがし」

奥越後風土記、中丸幸太郎氏撮影、昭和50年6月、津南町で

 田植えシーズン真っ盛り。この田植え用具の名称をご存知の方は、一定の年代以上だろう。機械化農業が進む「AI農業世代」の人たちは、何に使うのかも、分からないかもしれない。だが、この写真は明らかに田んぼであり、その用途は「田植え用具」であることが分かる。

 「それにしても先人たちは、よく考えたものだ。いったいいつ頃からあったのだろう」。先人を思いやる農業の大先輩、70代、80代は、この用具にお世話になった。

 横から見ると八角形。それを等間隔の木組みで仕上げている。この間隔が大事。名称は『ころがし』や『わく』などと呼ばれていたようだが、地域によってその呼び名は違う。この木組みの間隔が狭い「ころがし」と広い「ころがし」がある。広いものは「尺」とも呼ばれ、間隔が尺、つまり30㌢ほどもある。木組みが交わる場所が苗を植える場所になる。

 使い方は、名称の通り田植え前の田に転がす。すると田にころがしの跡がつき、その跡に手植えしていく。田植え用具は、この他にジャンボ熊手のようなもので、田んぼに線を引くものもあるが、このころがしは田植え用具の代表といえる。

 80代の経験者は話す。「ころがしは、だいたい男衆の仕事だったな。うまく転がさないと、植える苗も曲がってしまう。年季を積むとまっすぐに転がせるんだな」。曲がると、田植えの女衆から笑われたという。

 いま、ころがしは、貴重なインテリアになっている。中に電灯を入れ、表を障子紙で張ると、アンティーク調の灯りに変身する。それだけに貴重な民具になっている。

(2020年5月23日号掲載)

中央の屋根型の石祠の中に1メートル余の自然石を祀っている

鉢の石仏

昭和40年7月、十日町市鉢で  ​写真・文 駒形覐

 十日町市の鉢集落から西へ数百㍍ほどの山の手に、杉や松の古木に囲まれた「石仏(いしぼとけ)」と呼ばれている霊地がある。『中魚沼郡誌』にも「假山あり、池あり、一山蘚苔滑にして、奇石點々其の間に碁布す、蝉噪ぎて林逾静に、鳥鳴きて山更に霊なりの慨あり」と記されている。

 境内には十三仏、十六羅漢、鬼子母神など200基ほどの石塔類が立っており、なかでも珍らしい「百庚申」の塔群が見られる。境内の中心に本尊の石仏がある。牛がねそべったような胴体の上に、1㍍ほどの烏帽子(えぼし)型の突起部のある自然石。言伝えによれば、ある高僧が座禅を組んだまま石仏になったのだと言われているが、高僧の名は分らない。

 今から260年ほど前のこと、明屋有照(みょうおくゆうしょう)禅師がこの地を通りがかると天空から月のように光り輝く「天灯」が降りてきた。その場所をたずねると不思議な形をした石塔があり、村人からお坊さんが座禅したまま石になったのだと聞いた禅師は、「天に神あり、地に仏あり、この地こそ仏法を興すべき霊地」だとして、この石を石仏と名付け、その傍らに庵を結んで生涯をこの地で仏に仕えたという。

 この石仏は史跡として、十日町市の文化財に指定されている。

 ところで、いつの頃からか、この石仏の粉は万病に効くとか、身に付けておけば戦場でタマ除けになるといわれ、また祈願すればお産は軽くなり、縁結びにつながるなどと信じられ、霊験あらたかな石仏として信仰が広まった。ついては昨今蔓延している新型コロナウイルス感染を、何とかしてほしいと石仏にお願いしたくなるのである。

(2020年5月16日号掲載)

子熊を保護

1985年(昭和60年4月)本紙撮影

 哺乳ビンを両手(両前足)で抱えてミルクを飲む2頭の子熊の姿。これは動物園のスナップではない。1985年・昭和60年4月、まだ残雪が多い秋山郷の温泉旅館が保護したツキノワグマの子熊。当時の本紙は『いたずらばかりしますが、ほんとにかわいいですね』と、親代わりで育てている温泉宿・川津屋の主人、吉野徹さんの談話を載せている。

 秋山郷の「春熊狩り」はマタギ文化に通じる伝統の狩猟。この年の春、地元の漁師が熊を捕獲したところ、それは母熊で生後2ヵ月ほどの赤ちゃん熊がいることが捕獲後に分かった。猟師は以前、子熊を一時的に預かったことがある温泉宿・川津屋に連絡。吉野さんは山に返すまでの短期間ならと引き受けた。体長40㌢ほどでクリクリ目の赤ちゃん熊はふさふさ毛でぬいぐるみのよう。首の下にはくっきりと白い「月の輪」。その世話は一日に5、6回、100㏄のミルクを与える。哺乳ビンを抱えて飲む姿がかわいく評判になり、話が巷間に伝わり、本紙の取材となった。

 写真は、少し成長した子熊で、後ろ足で立ち、両前足でしっかりと哺乳ビンを抱え、2頭で仲良く飲む姿が、これまたかわいい。この子熊たち、結局、人に育てられた関係で野生復帰は難しいと判断され、この後、群馬の宝川温泉の旅館に引き取られ、『熊と一緒に露天風呂に入られる宿』として有名になった。親代わりで育てた吉野さん。「本当に子熊はかわいいです。でも本来は山で暮らす動物です。うまく共存できるといいですね」と取材に答えていた。

(2020年5月9日号掲載)

秋山郷・川津屋に保護され​哺乳瓶でミルクを飲む2頭の子熊

かつては赤飯や煮物、野菜などの差し入れだったが、今はお酒

牛腸という建築儀礼

1994年(平成6年)8月、旧中里村で 写真・文 駒形覐

 「牛腸(ごちょう)という名字の由来は?」と、時々尋ねられることがある。わが町(五泉市村松)にも、地域的なまとまりはないが13軒ほど牛腸姓の家がある。妻有地方では1軒だけみたいだ。

 以前、本欄の「妻有の建築儀礼」のところでも述べたが、かつては新しく家を建てるとき、何かにつけてマキ(本・分家の同族集団、妻有地方ではヤゴモリとも言っている)や親戚、近隣やムラ内の人たちから援助、協力をもらった。そして普請過程の節々で、造作が無事順調に進むように願いと祝いを込めて建築儀礼を行っているが、そのとき世話になった人たちを招いている。

 大工小屋が設けられ、「手斧(ちょうな)立て」と呼ばれる普請始めの頃になると、マキや親戚などから「大工さんたちにどうぞ」と赤飯や酒肴、煮物や野菜、それに縄などの差し入れがあり、これを「ごちょう」と言っている。戴いた品々は普請帳に牛腸、あるいは午腸の文字見出しで記帳していた。

 中国では牛の腸がもっとも旨い食材だとして、その料理を牛腸と言ったと聞いたことがあったので、「広辞苑」で確認してみたが、記載されていなかった。牛腸の慣習と言葉は、妻有地方だけではなく、広く県内外でも聞かれるのだが、なぜか辞書には出ていなかった。

 昨今の住宅建築では、一切を工務店に任せているの伝承の建築儀礼の多くは省略されてしまったが、妻有地方では牛腸の仕来りは続いている。ただ、赤飯や酒肴、縄など現物の差し入れはなくなり、いまはお金か酒を届けている。

 それにつけても、どうして牛腸の文字が名字に使われるようになったのか、分からない。

(2020年5月2日号掲載)

妻有新聞タイトル2-1.png

株式会社 妻有新聞社

津南支局  〒949-8201新潟県津南町下船渡丁2461-2 TEL.025-765-2215 FAX.025-765-5106

十日町支局 〒948-0051新潟県十日町市千歳町2-3-5 サンタクリエイトビル2F TEL.025-755-5227