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雪国妻有今昔物語

シリーズ連載

1986年(昭和61年)に閉校した田所小学校。最後のマラソン大会。

最後のマラソン大会

1985年(昭和60年)5月、本紙撮影

 いま、そこには『創立百周年記念碑・ふる里の学びや』が、かつて校舎があった場所に、ひっそりと建っている。1876年(明治9年)、下船渡村(現津南町)秋成村(同)などによる組合立秋成校田代分場として開校。創立100周年の時(1976年・昭和51年)は、中里村立田所小学校だった。この小学校は市町村合併の荒波を受け、1956年・昭和31年、津南町と中里村の境界線変更後、地籍が中里村になっても「津南町立田所小学校」として残り、1986年・昭和61年の閉校時も「津南町立田所小学校」として歴史の幕を閉じた。

 写真は、閉校となる1986年・昭和61年の前年の春、記念行事の全校マラソン大会。校舎わきの田んぼに、植えたばかりの苗が見える。季節は春弥生。子どもたちは短パン、元気いっぱいだ。全校20人ほどだが、このマラソンを先頭集団で引っ張る女の子たちが、なんとも頼もしい。校舎玄関前では先生が子どもたちを見守る。

 この小学校には名物先生がいた。熱血漢で、つねに子どもたちの視線で物事を考え、真正面から子どもたちと向き合っていた。泉谷十七三さん。いまは九州に暮らす。田所小学校の閉校後も、一貫してへき地校を志願して赴任し、妻有地域のへき地校はほぼ赴任したのだろう。ここにも、歴史のひとコマがある。      (2002年4月18日号掲載)

白羽毛観音堂の奉納物

​白羽毛観音堂の奉納物 写真・文 駒形覐

 中里村白羽毛(現十日町市)に聖観音菩薩を祀る観音堂があり、その由来話が今も語り継がれている。

 昔々、大雨で清津川が大氾濫して、上川原の所に深い渕ができ、水底に光る物があった。ムラの藤左衛門が飛び込んで拾ってみると、金ピカで五寸ほどの小観音。どうしたことか、耳が欠けていた。藤左衛門は取りあえず渕の上の丘に仮宮を作って納めておいた。

 その話を伝え聞いた清津川上流の南魚沼郡三俣村大島(現南魚沼市)の人たちが白羽毛にやってきて、「実は、洪水で流されたムラの仏様なので、お返しを」と懇願したので返してやった。大島では観音様を元の所に納めたが、いつの間にかまた姿を消し、白羽毛の堂に戻っていた。そこで大島の人たちは「観音様は白羽毛が好きなのだろうから、どうぞ、そちらでお祀りください」ということになり、白羽毛の観音様になったのである。

 ところで話は変わるが、かつて妻有地方の方言では難聴、難聴者を「キンカ」と言っていたが、耳の欠けた白羽毛の観音様はキンカを治してくれる仏として評判になり、近郷近在だけでなく、遠くからもお詣りに来た。

観音堂内には、お椀のフタに穴をあけたものに糸を通し、格子戸のところなどにぶら下げたものがいっぱい見られ、中には穴のあいた小石などもある。キンカの平癒を祈願する手段として考えられた呪法だったのだ。

 それにしても、穴あき椀の祈願物は各地で見られるが、これほどに数多く見られる所はめずらしい。白羽毛の観音堂は、素朴な昔の人たちの民間医療を知る上で、文化財的な存在といえる。                    (2002年4月11日号掲載)

お椀が奉納される白羽毛の観音堂(昭和45年)

道路わきの現在の観音堂

いまでは姿を消した『地炉(じろ)』。生活の場であり団らんの場であった。

暮らしの中の地炉

1982年(昭和57年)3月、秋山郷逆巻で

 妻有地方では囲炉裏を地炉(じろ)と言ってきた。いまではもう地炉のある家は少なくなってしまったから、地炉での暮らしを知る子どもたちはいなくなるのだろう。

 『北越雪譜』の著者・鈴木牧之が文政12(一八二九)年に書いた稿本『北越記行』で、秋山郷小赤沢で泊った民家について「地炉は五尺四方位にして、八・九尺も有りぬべしと思う大なる割木を鍋不相応に焚けれども…」と記し、大きな薪のある絵図を載せている。

 昭和30年代半ば頃だったが、民俗調査で秋山郷前倉の家に立ち寄ったところ、地炉に経20㌢ほどで、身の丈ほどもある長い丸太の薪がくべられていたのに驚き、『北越記行』の絵図を思い出した。平成13年に再び当地を訪れる機会があったので、当家に寄ったら、地炉の中に薪ストーブが置かれ、火棚や自在鉤(じざいかぎ)はなくなっていた。

 かつてはどこの在家でも二ヵ所に地炉が設けられており、茶の間のものをウワジロ、にわ(仕事場)のものをシタジロと呼んでいた。地炉端の四面それぞれに座名があって、座る人も決まっていた。座敷側のところをヨコザと言い、主人の座。玄関の入口側はキャクザで、来客の座。その向かい側は薪置場があって、主婦の座るカカザシキ。そしてその他の人が座るところがシタザシキ。この秩序はどこの家でも長く守られてきた。

 地炉は一家の生業、生活の拠り所となっていた。煮炊き、暖房、接客、団らん、作業などが展開されてきたのだが、昭和30〜40年頃から薪ストーブや石油ストーブの普及、それにガス・電気の調理器具の登場で、地炉はどこの家からも姿を消すようになった。

                         (2002年3月28日号掲載)

59豪雪、4月で残雪2メートル

1984年(昭和59年)4月始め、津南原高原で

 観測史上最も早い雪消えになりそうだ。16日、一時的な強い冬型で山間地では積雪があったが、街中は白くなったが積雪には至らなかった。十日町市中央部では2月中の消雪となり、津南町でも3月初めに今冬の消雪日を記録している。

 だが、この同じ時期に残雪2㍍余の年があった。それは「56豪雪」を上回る遅い消雪日を記録した「59豪雪」。その冬の最高積雪は4㍍(津南町役場前観測所、2月6日)。山間地では5㍍を超える豪雪だった。 

 この冬、大きな雪害があった。『清津峡温泉大雪崩』。険しく切り立った渓谷美で人気の清津峡渓谷。その谷にある清津峡温泉。2月9日、前日からの大雪で積雪が4㍍近くなったなか、その日の午後5時過ぎ、大規模な表層雪崩が発生。温泉街を埋め、直撃を受けた老舗温泉宿・清津館が屋根まで埋まり、5人の尊い命が奪われた。

 写真は標高450㍍の津南原高原。ニュー・グリーンピア津南がある大地。この年の4月初め、山間地はまだ3㍍を超える残雪があり、あと1ヵ月余で田植えの時期になるが、まだ一面の雪原。県補助を受け融雪剤散布に取り組む農業者。スノーモビルに散布機をつけ、雪原を走りながら融雪剤をまくが、この年は4月になっても降雪があり、せっかくまいた融雪剤が雪の下になることも度々だった。

 当時の本紙4月18日号は、「いったい、いつ消えるんだろうね。田植えは1ヵ月後だよ」と米づくり農家の声が載っている。この年の消雪日は5月12日(町役場観測所)。この記録はいまだ更新されていない。               (2002年3月21日号掲載)

「59豪雪」この年、4月始めでの2メートル余の残雪。スノーモービルで消雪剤散布する農業者

春の彼岸は​雪の上に「雪墓」を作る。今冬は記録的な少雪。すでに墓石が出ている地域が多い。

春のお彼岸

写真(昭和34年3月、津南町で撮影)・文 駒形覐

 春らしい陽気の日があるかと思うと、急に真冬に立ち返ったような寒さになる日もあるのが3月の天候。それでも「暑さ寒さも彼岸まで」のことわざ通り、この頃になれば少しずつ春めく日差しが続くようになる。

 今年の春のお彼岸の「入り」は3月17日、「中日」が20日で、「明け」は23日である。それにしても今冬の記録的な暖冬少雪で妻有地方はめずらしく雪無しお彼岸を迎えることになる。例年ですとこの時期はまだ1㍍以上もの積雪があり、墓石のほとんどは雪の下。だからどこの家も「入り」の前日か当日の昼間、自家の墓塔の上に雪を積んで「墓ごしらえ」をしていたのだが、今年はその勝手が違ってきたから、おいでになる精霊様は途惑うかもしれない。

 例年みられる妻有地方のお彼岸の墓ごしらえには、2通りの型がある。十日町・川西地域などでは、柱状型の雪墓が多いようだが、津南方面では椀型というか洞形状の雪墓が多いみたいだ。そして松や杉、椿などの小枝をそこに立てている。お正月のときの門松のように、お彼岸に精霊様を迎えるための依代なのかもしれない。

 『中魚沼郡誌』(大正8年刊)はお彼岸について「初日の前夕、童等藁一二把づつ持ち集い、一定の処で之を焼き『ぢぢたち、ばばたちこのあかりについてござれござれ』と唱へて、仏を呼び迎ふ」とあり、「中日」「明け」にも焚火して仏を送ると記している。昭和30年頃まで見られたお彼岸習俗である。

 彼岸の「入り」に天気がよければ稲の早生、「中日」なら中生、「明け」では晩生の出来が良くなると言われてきたが、今年はどうだろう。     (2002年3月14日号掲載)

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