雪国妻有今昔物語

シリーズ連載

​季語にもなっている「枯蟷螂」。早々の大雪だが、「カマキリ占い」は当たったのか…。

枯蟷螂(かれとうろう)

昭和55年晩秋

 11月の中頃だったろうか、台所にいた老妻が奇声を発したので驚いて行ってみると、何のことはない、カマキリが布巾に止まっているだけのことだった。寒くなってきたからだろうが、それにしても何処から入ってきたのかなと思った。

 身じろぎもしないで、三角頭をこちらに向けている。体も目の玉もすっかり茶色に変っていた。こういうカマキリを冬の季語では枯蟷螂(かれとうろう)と言っている。カマキリにはこのほかいろんな俗名がある。

 カマキリは人間のイボを取って食うという俗信から名付けたのだろう「イボムシリ」「イボジリ」などの方言名が各地で聞かれる。また、前肢をあげて拝むような恰好をしているところから「拝み太郎」「こう太郎」などとも呼ばれている。

 先日、新潟気象台は「今年の冬は平年並み」と報じていた。この時季になると、街のお天気博士のご宣託が話題になってくる。自然現象を通して大雪、小雪かの雪占いをするのだ。

 「カマキリが高い所に巣を作れば大雪、低い所なら小雪」の占い予報は、妻有地方でもよく聞かれる。カエルやケラなども土の中にもぐる深さで降雪の判断材料になっている。植物ではナンテンの実の多寡やお茶の木の花の上向き・下向きなどが判断材料となっており、また、山の紅葉の早い遅いで降雪予報をする人もいる。

 それにつけても、この枯蟷螂の侵入は、今冬の降雪をどう占えばよいのかなと思っていたら、「早く除けて」と老妻に促され、少々不気味だったがカマキリをつまんで窓の外に放ったら、ポトンと落ちていった。

(2020年12月26日号掲載)

(2020年12月17日号は休載)

(2020年12月12日号は休載)

小林存歌碑の除幕式で。左から滝沢路子さんとお子さん、山内蓮さん

秋山郷見倉の歌碑

1987年・昭和62年10月8日、秋山郷見倉で ​ 写真・文 駒形 覐

 先々週の本紙(11/28日号)に載った滝沢栄輔氏の秋山郷紀行文には、見倉集落にある小林存翁の歌碑についても触れられていた。実は30年ほど前のことだが、この歌碑建立に私もかかわった。

 小林存翁(明治10年ー昭和36年)は、中蒲原郡横越村(現新潟市江南区)の生まれ。小林家は、代々横越113ヵ村を治める大庄屋だった。本名は「ながろう」だが、周りの者は「ぞん」さんと呼んで敬愛していた。なんでも兄たちが早世したため、「存(ながろう)」と名づけられたとのこと。

 存翁は民俗学者で、新潟県民俗学会の創設者。また、すぐれた歌人、俳人でもあった。早い頃から妻有の里をこよなく愛し、特に秋山郷に関心を持ち、何度も足を運んでおられた。

 昭和30年のころ、山内軍平氏(中央印刷社長、存翁と親交)の紹介で、『中魚沼の物語』を十日町の原田屋旅館で執筆中の存翁に初めてお会いした。私が民俗学にのめり込むようになったのも、この時からである。

 存翁が亡くなった後、軍平氏を中心に妻有の郷土史研究仲間が、存翁の思いを何とか形にできないものかと話し合っていたが、昭和60年に軍平氏が急逝。急遽、軍平氏の遺志でもあった存翁の歌碑を建てようと、仲間で発起人会を結成した。歌は『五戸の里に女もあるか子もあるか日当る軒に赤きもの干す』と決め、場所は最も秋山らしさを留めている見倉の鎮守様境内を選んだ。

 昭和62年10月8日、歌碑の除幕式を行った。参加者は70人ほど。存翁の孫の滝沢路子さんとお子さん、そして軍平氏夫人の山内蓮子さんの3人で幕が下ろされた。なお、この日は軍平氏の命日でもあった。

(2020年12月5日号掲載)

閉校が決まった最後の年、地元の人と子どもたちで最後の餅つき交流会を開いた

最後の餅つき交流会

昭和57年11月、旧三里小学校で

 ◎…秋の取り入れが終了し、冬支度もほぼ終わり、雪を待つしばしの休息の時期。いまでは学校行事の過密で姿を消した「収穫祭」が11月末頃に小学校で開かれた。わずかな学校田で採れたお米を参加者にふるまい、持ち寄った餅コメで餅つき交流会。石の臼(うす)と杵(きね)。自分の背丈より長い杵を持ち、ヨイショ、ヨイショと餅つきの子どもたち。校区の人たちが見守り、一緒の掛け声が聞こえそうだ。

 ◎…ここは1983年・昭和58年3月に閉校した津南町の「三里(みさと)小学校」。三里とは三つの集落のこと。「小下里(こさがり)・反里(そり)・田中」の三つの地域から子どもたちは通った。信濃川河畔の三集落。田中は対岸にあり、人気の温泉宿「しなの荘」がある地域。閉校の年の在校生は41人。写真は昭和57年晩秋の一枚。最後の収穫祭となった。懐かしい木造校舎の体育館での校区あげての餅つき交流会だ。一生懸命に杵を持ち上げる子どもたちを見つめる大人たちの目が、みな笑っている。 

◎…どこもそうだが、小学校の閉校式はせつない。長い歴史を閉じるその時、校区の人たちの思いは募り、その中心の子どもたちは、最後の校歌斉唱を涙ながらに歌い上げ、見守る地元の人たちの寂しさはさらにさらに募る。この三里小学校跡は現在、製造工場本社大きな工場が立ち、普通教室の一部残るだけになっているが、信濃川河畔のそのたたずまいは往時のままだ。

(2020年11月28日号掲載)

いまは統合で閉校した当時の倉俣小学校の子どもたち。前に活発な男子たち、女子たちは後ろで見ている

一枚の写真から

   ​写真・文 駒形 覐

 この写真を見ていると、往時の事を思い出す。半世紀以上も前の事になる。民俗調査をしに旧倉俣村に出かけた折、ムラ中でにぎやかな男の子たちの群に出合った。「写真を撮らせて」と言うと「ハーイ」と元気な声が返ってきた。倉俣小学校の児童たちだった。

 遠足の帰り道だったのだろうか。それとも、きちんとした制服、制帽で、水筒などは持っていないところから見ると、修学旅行の帰りだったのかもしれない。女の子の集団はその後の方に見える。

 元気な顔、明るい顔、仲の良さそうな顔、小学校の高学年だったようだ。仲良しといっても、ふざけたり、からかい合ったり、時にはけんかになったりすることもある齢頃であるが、仲直りするのもまた早い。写真からそんな様子が感じられる。

 高学年だった彼等も、今はもう70歳過ぎの後期高齢者になっているわけだ。何人ぐらいがムラに残っているのだろう。仕事仲間、茶飲み友達として元気に過ごしていることだと思う。この写真は学校や子どもたちに届けていないので、本紙の写真を見て、話の種にしてもらいたいものだ。

 話は変るが、近ごろは小中高校などのいじめと、それに伴う不登校児童や生徒の多発化問題がしきりに報道されている。どうしてこんなことになったのだろう。

 識者は社会が、学校が、そして家庭のあり方が問題だと指摘しているが、具体的な対応についてははっきりしない。どうすればよいのだろう、心配になってくる。倉俣小学生の明るい顔の写真を見ていると、ふとそんな思いにかられるのである。

(2020年11月21日号掲載)

両岸からの橋梁コンクリートが連結。翌年に開通した宮野原橋

​国境の橋

1984年・昭和59年11月   ​本紙撮影

 両岸から張り出したコンクリートの橋梁。その中央に紅白の幕が見える。なにやら、未完成の橋の上で祝い事を行ったようだ。

 「連結式」である。新潟県と長野県を結ぶ国境(くにさかい)の橋『宮野原橋』の架け替えで、両岸から張り出したコンクリート橋梁がこの日、めでたく連結した。なんとも壮大な橋梁工事だ。

 いまでこそ、長野県に行く時は必ず通る国道117号に架かる宮野原橋。架け替えの前の橋が下流側、左に見える。大型車のすれ違いができず、両岸で待機しながらバスなどが往来していた県境の難所でもあった。

 宮野原橋は1985年・昭和60年8月に開通。全長224㍍。その前年晩秋の記録写真だ。前方が新潟県・津南町側。手前の民家も津南町だが、右側へ少し行くとすぐに県境。そこに今は「道の駅信越さかえ」がある。いまでこそわずか数秒で渡りきる宮野原橋だが、この連結式の時は、欄干もないコンクリートむき出しの平面を渡っての取材。巨大な空母のイメージだ。昨年10月13日の台風19号による大増水は、この橋すれすれまで水位があがる過去最大の流量を記録している。

 国境の橋。「千曲川が信濃川に名を変える」、その地点がこの橋。一本の川が途中で名を変えること自体、きわめて珍しい。その改名の地でもある宮野原橋だ。

(2020年11月14日号掲載)

第5回合同演劇祭の「シャッポの会」。「ジャックと豆の木」上演後のメンバー

妻有の演劇サークル

昭和35年11月   ​写真・文 駒形覐

ことになるが、もと教え子たちが結成したアマチュア演劇サークルの裏方を何年かやってみたことがある。楽しかった。

 十日町公民館主催で第1回合同演劇祭を昭和30年11月6日に開催した。参加8団体、会場は十日町高校の講堂だった。昼と夜の2部制で、それぞれが800人を超える観客を動員することができたので、大喜びをしたものだった。手許にその時のプログラムがあったので紹介してみる。

 昼の部(12時開会)

「花子」十日町高校演劇クラブ 

「夕鶴」白鷺会(川治青

年学級) 

「逃げる神様」青年文学

座(十日町青年学級) 

「二十二夜待ち」案山子

の会(中条青年団) 

「月食」十日町高校定時

制演劇部

 夜の部(18時30分〜)

人形劇「いじわるやめよう」あすなろクラブ(十日町青年学級) 

「死神から命をもらった話」シャッポの会 

「トンネル」劇団演劇人

 

 それ以降も出演団体に多少の減少はあったが、合同公演は第7回まで続けることができた。また、31年から3年間、十日町雪まつりに各劇団混成チームによる雪上舞台演劇を上演、これがその後の雪上カーニバル誕生の契機になったとも言われている。

(2020年11月7日号掲載)

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