雪国妻有今昔物語

シリーズ連載

熊狩りに出る漁師たち。雪が残る春山が良馬になる。

秋山郷の熊狩り

津南百年史より​          文 駒形 覐

 雪季になれば冬眠するはずの熊なのに、今冬はどうしたことか雪が降り出す時期になっても人里近くに現われて人を襲ったりし、新聞には毎日熊情報が続いていた。

 妻有地方では春先の頃、はげしい風雪をみると「秋山で熊でもとれたのだろうか」と言ったりした。熊が捕れると熊荒れするというのである。かつての秋山郷では、生業ではなくても男の人はだれもが熊狩りの経験者だったから、今でもなお熊狩りの習俗が伝承されている。

 熊狩りには、冬眠の穴に入る前の12月半ば頃から始まる『秋熊狩り』と、冬季3月頃から春先4、5月頃までの『春熊狩り』とがある。さらにこの春熊狩りには『穴熊狩り』と『巻き熊狩り』の別がある。今ではもう秋熊狩りはやらなくなってしまった。穴熊狩りは3月から4月の積雪期に行い、冬眠している熊を穴から追い出し、出てきたところを槍、鉄砲で仕留めるという猟法。これに対して巻き熊狩りは、穴熊狩りの時期が終った後の4月、5月に始めている。穴から出ている熊を尾根の方に追っていき、仕留めるという猟法で、今もこのやり方が主流となっている。追い手のことをオイッコと呼び、仕留め役のことをヤバと言う。オイッコは大勢の人数が必要で、経験の浅い若者たちが当てられている。熊を仕留めると、台持ち唄を歌いながら熊を担いで雪山を降りてくると、家人をはじめムラ人が歓声をあげて迎えたものだ。

 秋山郷の熊狩りのルーツは秋田マタギ系といわれている。鈴木牧之も『秋山記行』で「冬の間は秋田の狩人が時々来る」と記している。秋田マタギの子孫だという家も何軒かみられる。

(2021年4月3日号掲載)

(2021年3月27日号は休載)

春の雪消えと共に東京から帰ってきた男たち

江戸逃げ

昭和34年4月、津南町樽田で ​     写真・文 駒形 覐

 江戸時代からあったのだろうか、妻有地方には明治から昭和初期にかけ、「江戸逃げ」という習俗がみられた。「江戸行き」とも言っていた。以前、本欄の「イッチョマエ」のところでも触れたが、少し説明を加えたい。

 十五歳前後の若者数人で、家人には無断、夜逃げ同然で初めて江戸逃げを決行する。出発はお盆過ぎから十五夜の間。ひと冬を東京で働いてくるのである。江戸逃げしたことに気付いた家人は、連れ戻すために後追いの人を出す。この者をオイット(追人)と呼んでいた。

 捕まったら「たつけなし」と笑われるので、若者たちは足を早める。八箇峠・栃窪峠から塩沢・湯沢、そして三俣・貝掛・浅貝などの宿場を経て三国峠を越え、上州渋川に至る。明治の中頃になると渋川から高崎まで鉄道馬車、高崎から東京まで汽車を利用した。東京に着くと桂庵(口入れ業者)の斡旋で働き口を決める。米屋、銭湯屋、染物屋などが多かった。

 帰郷は旧暦三月節句の頃。財布の底を叩いても土産物を用意。特に江戸絵紙は欠かせなかった。不安とあせりの往路とは異なり、帰路の足取りは軽い。峠あたりまで出迎えの人が待ち受け、家では家族、親戚が待つ。

 日を改め、同行の仲間それぞれの家で「江戸行き振舞い」が行われる。招かれた人たちは餞別を届け、口々に「一丁前になったな」と賛辞する。若者にとって最も晴れがましい日となる。

 昭和初期になると上越全線が開通するようになり、東京に行くのはそれほど苦労でなくなったせいか、この頃から江戸逃げの習俗は消滅し、出稼ぎが多くなる。

(2021年3月20日号掲載)

(2021年3月13日号は休載)

固く丸めた雪玉をぶつけ合って固さを競う雪ん玉遊び

雪ん玉遊び

昭和40年頃、旧川西町で ​       写真・文 駒形 覐

 雪国の文人・鈴木牧之は、『北越雪譜』の中で

「玉栗」という雪の中の遊びについて記している。概略、次のような話である。

 「玉栗というい兒戯あり。始めは雪をまるめて鶏卵の大きさに握りかため、その上へ上へと雪を幾度もかけて足で踏み堅め、あるいは柱にあてておし堅める。(中略)此の玉栗を以て、他の玉栗にうちあつる。強き玉栗、弱き玉栗を砕くをもって勝負を争う。(後略)」。

 牧之も子どもの頃、この遊びに興じていたのだろう、詳しく遊び方について書いている。妻有地方では、雪ん玉遊びのことをカチとかガチ、あるいはツボンコ、キンゴロウなどと言っている。年輩の男性なら、だれもがこの遊びの経験者だったろう、牧之の頃の遊び方とほとんど変わっていないはず。

 男の子たちが集まると、雪ん玉遊びが始まる。まず、お互いが雪ん玉作りに腐心。固く握りしめてから柱や壁板に強く打ちつけ、さらに「きんごろう/きんごろう豆になれ/きんごろう/きんごろう石になれ/きんごろう/きんごろう鉄(かね)になれ/鉄になって勝ってくれ」(中仙田)などと唱えながら足で転がして固くする。塩を混ぜて握ればより固くなるのだが、反則。牧之も「小兒互いに塩を入れるを禁ず」と述べている。

 次々と相手の雪ん玉を打ち砕き続けていけば、ちょっとした英雄的気分。調子に乗って隣の町内や集落まで、遠征に出かけたりしたものだ。

 それにしてもどうなんだろう、カチやガチと言う雪ん玉遊びは、現代っ子たちにも伝承しているのだろうか。雪の中で仲間同士で遊んでいる子どもたちの姿は、この頃あまり見かけないのである。

(2021年3月6日号掲載)

木造の旧津南町役場2階の議場、円卓の議席で新年度予算などを審議する議員と行政当局

懐かしい円卓議場

昭和56年3月、本紙撮影

 新年度予算議会の季節だ。津南町は今月25日開会し、十日町市は来月3日、栄村も来月3日、それぞれ新年度予算案を審議する3月定例議会が開会する。年4回の市町村定例議会で、会期が一番長い議会である。

 写真は昭和56年3月の津南町議会のひとコマ。木造の旧役場2階にあった議場、というより大会議だ。正面のマイク前に立つのは3代目町長で1期目の石沢久十郎氏、隣の助役席は藤ノ木太朗氏。右側には収入役の阿部左右太氏、その隣は教育長の月岡稔氏。議場正面の一段高い所の議長席には樋口己巳三氏。当時の議員定数は22人。議席は円卓の配置でつねに全員の顔が見える。当局側に並ぶ課長もみな若々しい。関係者には懐かしい一枚だろう。

 当時は木造の役場庁舎。いまの津南町役場庁舎前の駐車場の反対側に建っていた。当時のなごりは、いま観光協会事務局が入る管理棟の脇の数本の桜だけになっている。この桜が木造役場庁舎の前にあり、春には満開の桜で役場前の庭は華やかになったという。

 議会の過去の議事録は、大切に保管されているだろうが、当時議員だった亡き元議長に思い出話しを聞いたことがある。「新年度の予算議会は、何日もやったもんだ。時には夜遅くまでおよび、途中で夕食休憩を取ったこともあった。一言居士とでもいうのか、自分の主張を貫く骨のある議員が多かった。時間制限がないから延々とやるわけだ。課長連中はたまったものではない。そんなことお構いなしに、次々と議員が持論をぶつけるわけだから、特に3月議会は長引いたなぁ」。まさに、今は昔か。

(2021年2月27日号掲載)

道踏みは集落全戸が当番制で行っていた。大雪にあたると夕方まで何度も道踏みに出た

​道踏みと雪道

昭和34年2月、旧川西千手で ​       写真・文 駒形 覐

 妻有地方の今冬は、年始から断続的に降雪が続き、豪雪となった。2月半ばを過ぎたのにまだ2㍍余りの積雪である。今では機械除雪による道路の無雪化が進んでいるが、かつてはこの時期の雪道に苦労した。

 雪道をカンジキで踏み固めることを「道付け」とか「道踏み」といっていた。家の前から通りまでの道付けは、各家それぞれの仕事であるが、離れた集落と集落の間の道付けは、当番が決められており、それを知らせる「道踏み板」があった。この板には集落全戸の名が書かれており、自分の当番仕事が終われば次の人へと回すようになっていた。

 雪が降った早朝は、何をおいても当番の家の男衆は道付けに出なければならない。長ブイトウ(縫い合わせた長着物)を着て、スッポン(わら長沓)を履いてカンジキを付け、コスキ(木鋤)を持ち、雪が降っておればスゲボウシの出で立ちで出かける。何度も往き来し道付けするのだが、雪が降りしきるときなどは半日もかかる大仕事。さらにひどく降る時は、夕方頃また一度道付けに出なければならなかったから大変だ。これを「夕道を踏む」といっていた。

 『雪道と打ち豆汁は後ほどいい』と言うことわざがある。雪道は多くの人が通った後ほど歩きやすいと言うことなのだ。だが細い雪道は、馬の背のようにまるみがかっているから滑りやすく、踏みはずせば腰のあたりまで雪の中に埋もれてしまう。

  さきだちゃようで(歩んで)くれ/あとのもんは/めいわくだ(川西)

 大勢して雪道を歩くときなどは、先頭の者が雪の中にずっこけたりすると、後に続く者たちから、こんなからかい言葉が飛んできたものだった。

(2021年2月20日号掲載)

大規模な全層雪崩が直撃した清津峡温泉。全壊し吹き飛ばされた清津館の玄関屋根が中央に見える

清津峡温泉大雪崩

1984年・昭和59年2月9日午後8時過ぎ、本紙撮影

 37年前の2月9日、59豪雪を象徴する大惨事が発生した。日本三大渓谷で、いまでは世界的なアート拠点になっている清津峡渓谷。2月初めから猛烈な降雪に襲われ、V字渓谷の底にある清津峡温泉街は積雪5㍍を超える大豪雪。新雪が次々と積り、急峻な渓谷の岩場にも大量の雪が積もった。9日午後5時過ぎ、温泉街の対岸の高さ8百㍍付近、桜ヶ峰から幅70㍍に渡り全層雪崩が発生。川を乗り越え、山津波のように温泉街を直撃。清津館、苗場館は全壊、古屋旅館、渓山荘、村山荘も雪に埋まった。直撃を受け全壊した清津館の家族7人が埋まり、5人が死亡する大惨事となった。

 前が見えないほどの激しい降雪のなか現場に向かい、午後8時頃に現場に到着。一面の雪。あるはずの家並みがない。地元の人たちや消防が救助活動するが、あまりにも大量の雪で埋まり、場所さえ分からない状態。後日の検証で埋まった雪の深さは8㍍もあった。 

写真は救助活動する地元の人たち。だが茫然と立ち尽くす。正面に見える屋根は、直撃で全壊し吹き飛ばされた清津館の玄関屋根。母屋はこの下に全壊して埋まった。夜通しの救助活動で奇跡的に2人だけが助かった。

 豪雪地・妻有の歴史に残る大豪雪の大惨事。清津峡温泉は、大地の芸術祭のアート作品「清津峡渓谷トンネル」で世界的人気だ。渓谷トンネルの坑口から対岸を見上げると、その急峻さが分かる。その最上部にあの大惨事後、雪崩防止柵が作られた。あれから37年の時が流れている。

(2021年2月13日号掲載)

突然現れた鬼に逃げまわる子どもたち。豆を鬼に投げ返す子どもも

節分と立春

1995年・平成7年2月、津南町で ​     写真・文 駒形 覐

 今年の立春は例年より一日早い二月三日であったから、豆撒きでなじみの節分も前日の二日。これは一八九七(明治三十一年)以来で、一二四年ぶりのことになる。

 節分とは、二十四節気のうちの立春、立夏、立秋、立冬それぞれの前日のことで、四季の変わる節目を指すものである。立春前の節分は、一年の変り目ということもあって特に重視されてきたためか、節分とは立春前の日みたいになっている。暦の上では春めいた節目であるが、妻有の里はまだまだ積雪。春にはまだ少し遠い。

 妻有地方の節分には、いろいろな伝承行事がみられたものだ。旧中里村白羽毛などでは、豆を撒く家は四軒。朝食は雑煮、夕食はヒラ・ナマス・豆腐汁などで祝った。夜、ムラの子どもたちが集ってくると、主人が「夷、大黒、宇賀の神、鬼は外、福は内」と唱えながら豆を撒く。豆を拾った子どもたちは、次の家へと回って行く。豆を撒いた家では十二粒拾い、これを十二ヵ月に見立てて地炉の熱灰に並べる。白く焼ければその月は晴れ、黒く焦げれば曇りか雨の多い月などと、一年各月の天気占いをしたものだが、今はもうやってないとのことだった。

 旧中条飛渡のムラでは、「十二月吉日」と書いた紙を豆木などにはさんで玄関先に下げたり、また、ニシンの頭や干子などを黒く焼いて門口に立てたりして鬼除け、悪霊除けにしており、これを『やいかがし』と言っていた。

 ところで近年、節分が近づくと、スーパー・マーケットなどで盛んに恵方巻と称する太巻き寿司を宣伝、目玉商品みたいにしているが、もともとこの寿司は大阪方面のもの。おかしな現象になったものである。

(2021年2月6日号掲載)

雪に苦しめられるが、雪を楽しむことも雪国人は忘れない

雪上運動会

1983年・昭和58年3月、津南町三箇地区で

 ◎…「春を呼ぶ雪上運動会」。雪国の人たちは

雪に苦しめられてもいるが、雪を楽しむことも忘れていない。今冬は新型コロナウイルス感染拡大で雪イベントのほとんどが中止になっている。雪像づくり、雪まつり、雪原カーニバルなど感染予防から活動自粛を余儀なくされている。だが、雪国人は雪を娯楽として受け止めている。この写真は、そのひとコマ。

 ◎…いまも各地で開かれる「雪上運動会」、あるいは「雪フェステバル」など、呼び方はいろいろだが、集落単位や地区単位で開かれる。写真は昭和58年3月の津南町三箇地区の雪上運動会。ユニークな種目の数々、『タバコの火つけ競争』『ストローでビール早や飲み競争』『尻もち風船割り競争』などなど、いまではヒンシュクを買いそうな種目も。三箇地区は地域公民館活動として開き、地元の三箇小学校(閉校)とタイアップし、子どもたちの競技も組み入れながら地域を6地区に分け、まさに地域総出の雪上運動会。残念ながらいまは開かれていない。

 ◎…地元のお年寄りは思い出話を語る。「賑やかだったなぁ。会場づくりや選手選びなど準備は大変だったが、この日はいくら吹雪でも皆が楽しみにしていた。一つ一つの競技に大笑いが起り、冬なのにあったかくなった。地域の元気印だったなぁ」と懐かしむ。この三箇地区は、台湾など外国からの来訪が増えているが、新コロナで往来はストップしている。特に冬が人気だ。「外国の方たちも喜ぶだろうね、この雪上運動会。また開きたいね」。

(2021年1月30日号掲載)

小正月行事のひとつ「成木責(なるきぜめ)」は15日早朝に行った。十日町市博物館友の会『ふるさとの想い出写真集』より

​小正月行事

昭和30年代、十日町市江道で ​     文 駒形 覐

 正月行事は、元日から始まる大正月と15日からの小正月とに分けられる。大正月は、歳神を迎えて厳粛な物忌の行事が中心で、男手で取仕きることから「男の正月」とも言っている。これに対して14、15日から始まる小正月には、主として農耕にかかわる予祝や豊饒を祈る多様な行事が見られる。妻有地方のかつての小正月行事を見てみよう。

 1月13日は、若木の枝いっぱいに繭玉、稲穂、粟穂などに見立てた団子や餅の玉を付け、神棚や部屋に飾って小正月を迎えるための「作飾り」。14日の夜は、子どもたちが拍子木を打ち鳴らし、《あの鳥どっから追ってきた/信濃の国から追ってきた》と歌いながらムラ内を回わる「鳥追い」。15日早朝、わら叩きの横槌に縄を付け、《モグラモチはどこだ/横槌どんのお通りだ》と唱えながら家のめぐらを回る「モグラモチ追い」。同じくこの朝、一人が柿の木に《成るか成らぬか/成らぬと切るぞ》といって鉈を振り上げると、もう一人が《成ります/成ります》と答えて幹に小豆粥を掛けてやる「成木責」。15日、昼の年取り膳が終るころ、村の広場で「塞の神(道楽神)」が始まる。《道楽神の馬鹿が/〇〇(地名)に呼ばれて/後で家焼かれた焼かれた》と囃しながら燃え盛かる火に手をかざす。16日は女の人は「椀も洗わなくてよい日」だとし、男衆が朝食に串餅を焼いたりしたという「女の正月」。そして20日が正月の終わりで、小豆粥と昆布巻で祝う「二十日正月」。

 妻有郷の多様な小正月行事の伝承も、昭和30年頃から途絶えはじめたようで、昨今は「鳥追い」と「塞の神」が地域によって行われているだけとなった。

(2021年1月23日号掲載)

(2021年1月16日号は休載)

ヘッツイと呼ばれる竃(かまど)の上に、握り飯にベロを刺し、祝いの「年取り」を行った

竃神様の年取り

昭和33年1月3日、十日町市川治で ​     写真・文 駒形 覐

 新型コロナウイルス禍による自粛で、今年の正月はどこも静かだったみたいで、なんとなく正月三ヶ日も終わってしまった。

 ところで妻有地方では、昔から1月3日を「竃神様の年取り」といっており、ヘッツイと呼んでいる竃(かまど)のある家では、ちょっとした祝い行事をしていた。『川西郷土読本』(昭和14年刊)は、次のように記している。

 「一月三日、竃祭り。此日夕飯に粟飯を炊き、それで小さい握り飯を六つ作り、之に細い真直の棒三本、先一寸ほどを曲げた棒を三本さして、竃神に供える。伝説に曰く『此神様は大変貧乏の上、女の子ばかり六人持って働くものなく、他の神々は皆三十一日に越年するが、此の神様は三日に到って漸く米少々を得、それに粟少々を混じて越年せしとか』という」。

 十日町市の赤倉や中仙田などでは、女の子は12人だと言っており、その人数分の握り飯を供えている。この握り飯は女の子が食べることになっている。また、この日の夕食は「三日トロロ」と言って、トロロ飯を食べたものである。

 握り飯に刺した先の曲った棒をベロと呼び、子どもたちはヘッツイの前で車座になり、中にいる子がベロを手のひらにはさみ、「ベロベロかめろ/尊いかめろ/親でも子でも/屁こいた方に/向きゃれ向きゃれ」(江道)と唱えながら回し、ベロの先が当った子どもが次の番になるという遊びをしていたものだ。

 今は煮炊きのすべてがガス、電気。どの家からもヘッツイは姿を消してしまったから、「竃神様の年取り」行事は、もう忘れ去られてしまったみたいだ。

(2021年1月9日号掲載)

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