01.11まさもと_web広告.jpg
01.11.16ももたろう_web広告.jpg
01.11.16ペペロッソ_web広告.jpg
高見石材_web広告.jpg

雪国妻有今昔物語

シリーズ連載

いまでは姿を消した『地炉(じろ)』。生活の場であり団らんの場であった。

暮らしの中の地炉

1982年(昭和57年)3月、秋山郷逆巻で

 妻有地方では囲炉裏を地炉(じろ)と言ってきた。いまではもう地炉のある家は少なくなってしまったから、地炉での暮らしを知る子どもたちはいなくなるのだろう。

 『北越雪譜』の著者・鈴木牧之が文政12(一八二九)年に書いた稿本『北越記行』で、秋山郷小赤沢で泊った民家について「地炉は五尺四方位にして、八・九尺も有りぬべしと思う大なる割木を鍋不相応に焚けれども…」と記し、大きな薪のある絵図を載せている。

 昭和30年代半ば頃だったが、民俗調査で秋山郷前倉の家に立ち寄ったところ、地炉に経20㌢ほどで、身の丈ほどもある長い丸太の薪がくべられていたのに驚き、『北越記行』の絵図を思い出した。平成13年に再び当地を訪れる機会があったので、当家に寄ったら、地炉の中に薪ストーブが置かれ、火棚や自在鉤(じざいかぎ)はなくなっていた。

 かつてはどこの在家でも二ヵ所に地炉が設けられており、茶の間のものをウワジロ、にわ(仕事場)のものをシタジロと呼んでいた。地炉端の四面それぞれに座名があって、座る人も決まっていた。座敷側のところをヨコザと言い、主人の座。玄関の入口側はキャクザで、来客の座。その向かい側は薪置場があって、主婦の座るカカザシキ。そしてその他の人が座るところがシタザシキ。この秩序はどこの家でも長く守られてきた。

 地炉は一家の生業、生活の拠り所となっていた。煮炊き、暖房、接客、団らん、作業などが展開されてきたのだが、昭和30〜40年頃から薪ストーブや石油ストーブの普及、それにガス・電気の調理器具の登場で、地炉はどこの家からも姿を消すようになった。

                         (2002年3月28日号掲載)

59豪雪、4月で残雪2メートル

1984年(昭和59年)4月始め、津南原高原で

 観測史上最も早い雪消えになりそうだ。16日、一時的な強い冬型で山間地では積雪があったが、街中は白くなったが積雪には至らなかった。十日町市中央部では2月中の消雪となり、津南町でも3月初めに今冬の消雪日を記録している。

 だが、この同じ時期に残雪2㍍余の年があった。それは「56豪雪」を上回る遅い消雪日を記録した「59豪雪」。その冬の最高積雪は4㍍(津南町役場前観測所、2月6日)。山間地では5㍍を超える豪雪だった。 

 この冬、大きな雪害があった。『清津峡温泉大雪崩』。険しく切り立った渓谷美で人気の清津峡渓谷。その谷にある清津峡温泉。2月9日、前日からの大雪で積雪が4㍍近くなったなか、その日の午後5時過ぎ、大規模な表層雪崩が発生。温泉街を埋め、直撃を受けた老舗温泉宿・清津館が屋根まで埋まり、5人の尊い命が奪われた。

 写真は標高450㍍の津南原高原。ニュー・グリーンピア津南がある大地。この年の4月初め、山間地はまだ3㍍を超える残雪があり、あと1ヵ月余で田植えの時期になるが、まだ一面の雪原。県補助を受け融雪剤散布に取り組む農業者。スノーモビルに散布機をつけ、雪原を走りながら融雪剤をまくが、この年は4月になっても降雪があり、せっかくまいた融雪剤が雪の下になることも度々だった。

 当時の本紙4月18日号は、「いったい、いつ消えるんだろうね。田植えは1ヵ月後だよ」と米づくり農家の声が載っている。この年の消雪日は5月12日(町役場観測所)。この記録はいまだ更新されていない。               (2002年3月21日号掲載)

「59豪雪」この年、4月始めでの2メートル余の残雪。スノーモービルで消雪剤散布する農業者

春の彼岸は​雪の上に「雪墓」を作る。今冬は記録的な少雪。すでに墓石が出ている地域が多い。

春のお彼岸

写真(昭和34年3月、津南町で撮影)・文 駒形覐

 春らしい陽気の日があるかと思うと、急に真冬に立ち返ったような寒さになる日もあるのが3月の天候。それでも「暑さ寒さも彼岸まで」のことわざ通り、この頃になれば少しずつ春めく日差しが続くようになる。

 今年の春のお彼岸の「入り」は3月17日、「中日」が20日で、「明け」は23日である。それにしても今冬の記録的な暖冬少雪で妻有地方はめずらしく雪無しお彼岸を迎えることになる。例年ですとこの時期はまだ1㍍以上もの積雪があり、墓石のほとんどは雪の下。だからどこの家も「入り」の前日か当日の昼間、自家の墓塔の上に雪を積んで「墓ごしらえ」をしていたのだが、今年はその勝手が違ってきたから、おいでになる精霊様は途惑うかもしれない。

 例年みられる妻有地方のお彼岸の墓ごしらえには、2通りの型がある。十日町・川西地域などでは、柱状型の雪墓が多いようだが、津南方面では椀型というか洞形状の雪墓が多いみたいだ。そして松や杉、椿などの小枝をそこに立てている。お正月のときの門松のように、お彼岸に精霊様を迎えるための依代なのかもしれない。

 『中魚沼郡誌』(大正8年刊)はお彼岸について「初日の前夕、童等藁一二把づつ持ち集い、一定の処で之を焼き『ぢぢたち、ばばたちこのあかりについてござれござれ』と唱へて、仏を呼び迎ふ」とあり、「中日」「明け」にも焚火して仏を送ると記している。昭和30年頃まで見られたお彼岸習俗である。

 彼岸の「入り」に天気がよければ稲の早生、「中日」なら中生、「明け」では晩生の出来が良くなると言われてきたが、今年はどうだろう。     (2002年3月14日号掲載)

妻有新聞タイトル2-1.png

株式会社 妻有新聞社

津南支局  〒949-8201新潟県津南町下船渡丁2461-2 TEL.025-765-2215 FAX.025-765-5106

十日町支局 〒948-0051新潟県十日町市千歳町2-3-5 サンタクリエイトビル2F TEL.025-755-5227