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雪国妻有今昔物語

シリーズ連載

左から2人目が駒形氏

新潟・長野県境調査で苗場山頂へ

写真(昭和49年10月撮影)・文 駒形覐

 今回は私事にわたる話になり、恐縮。

 いまから半世紀ほど前になるが、2千㍍を超える山に私は初めて登った。苗場山である。当時、県教委文化行政課に勤めていた折のこと、苗場山頂で接する新潟・長野両県の県境確認をする業務が出てきて、天然記念物の文化財を担当していた私のところへ、その仕事がまわってきた。子どもの時からマラソンと山登りが大嫌いであったから、全く気の重くなる役割だった。

 昭和49年10月半ば頃だったと思う。秋山郷の小赤沢から両県と津南・湯沢両町の関係者を交えた一行5、6人で苗場山に向かった。中ほどまで登ったあたりから息切れしはじめた私は、一行のどん尻。それも遥かに遅れての一人歩きなので、皆さんに心配をおかけしてしまった。

 妻有地方に古くから、干ばつ続きのときは、苗場山へ水貰いに行くという俗信があり、山頂の池塘(ちとう)と言われている池の水を汲んできたそうだ。『中魚沼郡誌』にも苗場山が詳しく載っている。山頂について「此原に無数に小池を湛え、その大なるものも経三十六尺に過ぐるものなし、多くは円形にして浅く、中に禾木植樹を生ず、その状稲田に類す、苗場の称の依て起きたるの所以なり」とある。実は前から池塘の現地を見たいと思っていたので、気重なこの業務が好機となったのである。

 山小屋で2泊3日の日程で調査した。どんな協議、結論になったのか、すっかり忘れてしまったが、池塘が点在している山頂の広く平らな湿地帯のすばらしさに感嘆したときの記憶は、いまもはっきり覚えている。           (2020年2月15日号掲載)

3年連続豪雪の年に起きた飯山線の脱線事故。雪崩に雪が乗り上げた

豪雪の脱線事故

1986年(昭和61年)3月4日、本紙撮影

 この写真は1986年・昭和61年3月4日、飯山線で発生した脱線事故。この冬は最高積雪373㌢(津南町役場観測)を記録する「59豪雪」から3年連続の豪雪の年で、雪が消えたのは4月30日。この冬の昭和60年12月、大規模年金保養基地・グリーンピア津南がオープンした。

 飯山線脱線事故を当時の本紙が報じている。『4日午前10時25分頃、国鉄飯山線の足滝駅ー宮野原駅間の寺石地内で、2両編成の越後川口発・長野行き普通列車が線路を埋めた約300立方㍍の雪崩に乗り上げ脱線した。乗客17人と乗務員にけがはなかったが、飯山線はこの日終日運休となり、翌5日午前1時半にようやく復旧した』。

 この現場は、信濃川左岸の山沿いにへばりつくように飯山線が走り、寺石トンネル坑口から80㍍余の場所。雪崩防護柵があるが、雪庇(せっぴ)が崩れ防護柵を乗り越え、線路を埋め、その雪崩に列車が乗り上げた脱線事故だった。

 飯山線は、全国的に名を知られる「38豪雪」の時、NHKが『現代の映像』で特集し、雪の中をSLがモクモクと黒煙をはきながら走る雄姿が映し出され、「雪の飯山線」で有名になった。信濃川・千曲川と平行して走る飯山線。四季折々のロケーションが、カメラマンの絶好の被写体になり、足滝など「無人駅」が、旅愁感たっぷりとあって、「乗り鉄」「撮り鉄」の人気を集めている。                 (2020年2月8日号掲載)

復刻された「越能山都登」(中央印刷刊)

越能山都登

写真・文 駒形覐

 十日町市博物館に国指定の文化財「越後縮の紡織用具及び関連資料」(2098点)が収蔵されており、その中に『越能山都登(こしのやまつと)』という古書が含まれている。「越後の山みやげ話」と言う意味である。

 著者は平千秋(本名・金沢瀬兵衛千秋)で、幕府の役人。絵図の亀井協従(本名・亀井与右衛門)は江戸渋谷の名主で画人。寛政12年(1800年)に刊行された。

 平千秋は幕府の検察使として安政12年に妻有庄田沢村の桔梗ヶ原開墾地を検分、吟味のため来村。田沢村の庄屋村山家に約40日ほど滞在をし、公務の傍ら著したのが本書である。なお、桔梗ヶ原とは旧中里村の地籍で、清津川と信濃川の合流地点から清津川右岸段丘をさかのぼり、高道山の下段まで続く段丘地帯のこと。

 『越能山都登』は1冊で上・下2巻からなっており、上巻では縮織りの生産工程を工具類や織り子の様子などを混ぜ、絵図入りで克明に述べている。いざり機の絵図のところで「機をたてそむるときその女髪を清うす、(中略)うちとの親しき限りまどいして、煎豆やうのもの打喰い祝うなり、あるいは機のまねきのあたりにさくら、つつじなどさして機守る神をいさめ祝う、又必ず草鞋をひとつ着くることもあり」と記しており、機織りが神聖な仕事、大切な仕事であることをうかがわせている。下巻では雪国の運搬具や履物、被り物 の民具類と山菜や川魚などについて絵図入りで巧みに記述している。

 古くから縮布の産地として伝統のある妻有郷にとって、本書は貴重な資料であることから、昭和48年に中央印刷の山内軍平氏により復刻された。  (2020年2月1日号掲載)

自分たちで作った半袖アンギン雨を着る大赤沢小学校の子どもたち

アンギンと秋山郷

1987年3月3日、本紙撮影

 子どもたちが着ているのは『アンギン』。この研究の第一人者、滝沢秀一さん(1918年〜2012年)は記す。『布の一種であり、機械で織った織り物ではなく、俵や菰(こも)を編むのと同じ道具で編んだ「編み布」なのである』。昭和28年、新潟県民俗学会の創始者・小林存(ながろう)が秋山郷で発見。「まぼろしの布」と報じられ全国的な関心を集めた。アンギンは縄文期から作られ、それが営々と昭和期まで続き、生活用具として使われていたという事実の発見でもあった。

 その後のアンギン研究は津南町の滝沢さんの手による研究、解明によるところが大きい。「まぼろしの布」が見つかった秋山郷に津南町立大赤沢小学校があった。いまは校舎だけが残る。昭和62年度(1986〜87年)、この小学校で郷土歴史学習の一環で子どもたちが「アンギンづくり」に取り組んだ。この年の全校は7人だが、新校舎もできた独立小学校だ。

 滝沢さんを先生に、アンギンの素材となる山野に自生するカラムシ、アカソ、ミヤマイラクサを採取し、縄文人が行ったであろう、皮をはぎ、乾燥させた繊維を撚って糸状にして、それを自然木で作った用具にしつらえで編んでいく。

 編む作業は冬仕事だった。子どもたちは真冬の2月から編み始め、ひとり一着の半袖アンギンを編み上げた。当時の本紙に子どもたちの言葉が載る。「山に生えている草から、よくこんな服ができるなぁ」、「昔の人は寒かったと思う」、子どもらしい感想だ。何度も大赤沢小学校に通って指導した滝沢さん。「それにしても、子どもたちの努力はすごいもんだ。拍手を送りたい」。地元住民も参加した交流会で、作り上げたアンギンを着て披露した。いまもこのアンギンは、大切に残っているであろう。   (2020年1月25日号掲載)

小正月

昭和33年 旧中里村羽毛で

写真・文 駒形覐

 元日から始まる正月を「大正月」と言い、これに対して14日から始まる正月を「小正月」とか「小年(こどし)」と呼んでいる。正月が2回に分けてあるのはおかしなことだが、古い時代に行われた改暦の影響なのだろう。

 大正月では、正月さん(歳徳神)を迎えて厳粛な物忌を行うのが特徴で、儀礼的な言わば外向けの正月行事が中心となっている。これに対し小正月では、稲作をはじめ農作物が豊かに実るようにと年の初めに当たってあらかじめ祈り、祝う内向きの行事が多い。これを予祝行事と呼んでいる。妻有地方で行われてきた小正月行事のいくつかをあげてみる。

 13日の朝早く餅つき。この餅や団子で稲穂やアワ穂、野菜や繭(まゆ)の形を作って若木の枝いっぱいにさし、茶の間や座敷に飾って小正月の準備をする。これを「作飾り」とか「団子飾」と呼んでいる。

 14日の夜から15日の早朝にかけ、子どもたちの「鳥追い」行事がある。昼間のうちに雪を掘って鳥追い小屋を作り、家々を回り焚火用のわらを貰い歩く。妻有地方の鳥追い小屋には横穴型、城壁型、そして十日町赤倉の雪塔型があり、その呼称は旧十日町、川治のホンヤラドウ、中条や下条のホーリンドウ、川西や中里、津南のトリオイドウ・ユキンドウなどがある。それにしても昨今、この行事をカマクラと呼称、表記していることの多いのに違和感を覚える。カマクラは秋田県横手市付近の小正月に作る雪洞のことである。

 15日の朝、横槌(づち)に縄をつけて家の周りを引っぱり回わる「モグラモチ追い」や柿や栗の果樹に傷をつけ、小豆粥をかけてやる「成木責め」の行事などもあったのだが、絶えて久しくなってしまった。               (2020年1月18日号掲載)

家々を回りわら集めをする子どもたち

全く雪がない小学校グラウンドで「雪なし運動会」が開かれた

雪なし雪上運動会

1989年2月、津南町三箇地区で

 「天皇崩御」で始まった1989年。昭和から平成に変わったこの年の冬は、まさに「小雪」の年だった。初雪は11月11日と比較的早く降ったが、年の瀬の12月29日の96㌢(津南町観測所)が、この年の最高積雪だった。1月下旬に積雪は50㌢を割ったが、2月の節分寒波で再び積雪90㌢台となったが、以降はまとまった降雪はなく、十日町市街地は2月中旬には雪がなくなり、津南町でも3月上旬には街なかに雪はなくなり、記録的には21日(同)が消雪日となった。

 この写真は、「雪上運動会」のひとコマ。津南町三箇地区で毎年3月に行う住民交流の雪上運動会だが、写真の通り雪はない。見える校舎は、今はなき木造校舎。住民総出の運動会で、例年は2㍍余の雪の上で、スコップ滑りやかんじきレースなど、雪に足を取られながらの悪戦苦闘に大爆笑が起こる雪上運動会。だが、この年は秋の運動会と同じく、土の上で「雪なし雪上運動会」となった。

 今冬は、小雪もようで新年を迎えたが、過去のデータの通り、最近では13年前の2007年(平成19年)が小雪で、最高で60㌢(十日町)、64㌢(津南)だった。ただ、4年前の2016年(平成28年)は、1月中旬に雪が市街地になくなったが、下旬から降り始め2月中は積雪1㍍前後を推移し、なんとか十日町雪まつりを開催できた。さてさて今冬は、これからどうなるか。                      (2020年1月11日号掲載)