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シリーズ連載

​戦後75年 語り継がねば

98歳のフィッシャーさんと息子のユルゲンさん(今月2日)

フィッシャーさんの戦後

ドイツ在住 ヴァウアー葉子(十日町市出身)

 戦後75年の今夏、妻有新聞はシリーズ連載「語り継がねば」を8月に掲載した。読者から多くの反響があり、そのひとり、ドイツ在住のヴァウアー葉子氏(十日町市出身)から寄稿が届いた。98歳の隣人の証言を寄せて頂いた。

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 ドイツ中部デュッセルドルフ近郊のメットマンに引っ越して来てから40年になる。

 2階建てが7軒並んだ家の一つで、お隣のフィッシャーさんご一家とは引っ越して来て以来、つかず・離れず・干渉せずの理想的なお付き合いが続いている。

 ご主人のロベルト・フィッシャーさんは1922年(大正11年)生まれの98才で、7年ほど前に奥様を亡くされて以来、息子のユルゲンさんと2人暮らしである。お年のせいで耳が遠く、足腰が弱り、最近はもう散歩はできなくなったが、雨さえ降らなければほぼ毎日、ユルゲンさんが車椅子に乗せて「新鮮な空気の補給」に出かけている。

お年からも想像がつくように、フィッシャーさんは第2次世界大戦では18歳で召集され、半年余の軍事教練を受けたあと、斥候兵として戦火をくぐり抜けてきた。

 戦中、所属部隊はロシアからノルウェー、バルカンと移動し、1945年(昭和20年)5月8日にドイツが連合軍に降伏した際にはチェコにいた。降伏した相手は米軍だったのだが、すぐにソ連軍と入れ替わった。 

 連合軍間の取り決めでチェコがソ連の管理下になったためである。ソ連軍から家に帰してやると言われて、喜んで貨車に乗ったのだが、窓のない貨車に長いこと揺られ、着いたところがシベリアと分かった時には驚愕した。

 収容所では日本人抑留者の宿舎と隣り合わせだった。

 「言葉が分からないんで、親しくなれたわけじゃないけど、日本人はみな礼儀正しい人たちだった。どういうわけか時々米を分けてくれた。自分たちだってひもじい思いをしていただろうに。おかげで生き延びられたようなもので、今でも日本には言葉で言い表せないくらい感謝しているよ」

 シベリアにいた間、泥炭の採掘作業と木の伐採・運搬が仕事だった。仲間は次から次へと死んでいった。あのままシベリアにいたら確実に死んでいただろうけれど、運よく2年でモスクワに移され、物資輸送やクレムリン宮殿の内装工事をさせられた。運よくとはいえ、シベリアで2年を生き延びられたのが不思議なくらいだという。

 解放されたのは1949年(昭和24年)のクリスマス頃で、ベルリンまでの切符をくれた。着いてほっとする間もなく、ドイツが東西に分離したこと、故郷の村がソ連管理下になったことを知り、両親のことが心配になって急いで故郷の村に帰った。驚いたことに、国境線は実家の村からたった5㌔足らずのところに引かれていた。

 ただ、当時は国境警備はそれほど厳しくなく、パトロールの時間さえ注意すれば、いくらでも東西を出入りできたので、西ドイツへ行って物資を仕入れ、それを東で売る闇商売をしたり、土地カンがあるので西へ逃げたいという人の手助けをしたりして稼いでいた。

 とはいえ、ソ連の管理下というのは、シベリアの体験から将来が不安で、1950年(昭和25年)4月、知り合いと一緒に西ドイツへ逃げた。

 1961年(昭和36年)8月にベルリンの壁ができてからは、故郷の村の国境警備も厳しくなり、国境に近寄ると、犬だろうが鳥だろうが、自動的に機関銃が発砲される装置まで取り付けられ、国境地帯にある村への出入りはまったくできなくなった。

 1972年(昭和47年)に父親が亡くなった時には特別許可をもらって入ったけれど、許されたのはたった2時間で、それも兄弟・子供のみで、配偶者や孫に許可は下りなかった。

 それから壁が崩壊して東西ドイツが統一される1990年(平成2年)10月まで、故郷の村には一歩も入ることができなかった。

 「連れ合いが国境から10㌔離れた町の出身でね、そこまでなら入国・滞在許可を貰えたんで、そこから連絡して、親戚とか友人に来てもらって会ったこともあるが、ビザを貰うのに4週間かかるし、西側の人と接触があるというだけで白い目で見られる。親戚や友人に迷惑がかかると分かって、行くのはやめた。西からの手紙は検閲されたし、電話は盗聴された。国境の自動発砲装置だって西に向いていたんじゃないよ。東だよ。逃げようとする自国民を殺す装置だったんだよ。ベルリンの壁を越えようとして殺された人も少なくなかった。形は違っても、これは戦争でしょうが」

 フィッシャーさんにしてみれば、「戦後」というのは、東西ドイツが統一されてからのことなのである。

 奇しくも今年の10月3日は東西ドイツ統一30年周年にあたる。記憶をたどりながら話すフィッシャーさんの、遠くを見る目が印象的だった。

75年前の思いを語る石橋静枝さん(津南町相吉で)

あれが最後でした。桜の木の下で最敬礼する夫

夫21歳、妻20​歳、新婚生活11ヶ月目に

 20歳と21歳の若い夫婦を引き裂いた戦争。石橋静枝さん(大正10年10月21日生まれ)は、今も桜の下で最敬礼する夫の姿を鮮明に覚えている。今年10月で99歳になるが、家族と共に暮らしている。2016年8月の取材を再編集し掲載します。

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 75年の歳月は、あの日の姿を忘れさせるどころか、つい昨日のことのように、いつもよみがえる。結婚式を挙げた11ヵ月後、桜の木の下で見た最敬礼する姿の夫が、最後になった。「あの姿、あの姿が最後だったんです」。石橋静枝さん(98)は、その姿が、いまも鮮明に目に浮かぶ。

 「私は東京で拾われたんです」。富山・高岡市生まれの静枝さん。東京で仕事をしていた津南町出身の大工棟梁の世話になり、そのまま津南に一緒に帰った。縁あって婿養子を迎えることができた。それが夫・政見(まさみ)さんだ。

 夫21歳、妻20歳の若い2人は昭和15年5月、結婚式を挙げた。夫は当時では珍しい運転免許を持ち、東洋一といわれた信濃川発電所(津南町三箇)で働く。現場に泊りながらの勤務で、顔を合わせるのは週末だけ。それでも若い2人にとって、それは、かけがえのない新婚生活だった。

 

 だが翌年4月、赤紙が来た。「おめでとうございますと言われたが、なにを言ってるんだと恨みました。当時そんなことは言えなかったが、泣いて、泣いて、泣きました」。新発田で入隊。結婚からわずか11ヵ月後、1年も経っていない。

 入隊後、夫から手紙が来た。『面会に来られないか』。戦地に行く日が近づいていたのだろう。父と一緒に逢いに行ったが、面会時間はわずか20分。「面会が嬉しくて、あれもこれも話そうと思っていましたが、なにも話せませんでした」。葉桜になった桜の木の下で最敬礼した夫の姿、それが最後の姿だった。「桜の木の下で最敬礼していたんです…」、そう話す静枝さんの目が、みるみる潤んで、涙でいっぱいになった。

 昭和20年8月15日、終戦。近所の人が知らせてくれ、ラジオで玉音放送を聞いた。「でも5年間、どうなったか全く分からなかったんです」。ガダルカナル島、ジャワ島、フィリピンなどと転戦し、行く先々から手紙をくれた。その数十通の手紙は、いまも大切にとってある。

 ある時を境に手紙が来なくなった。便りがないのは無事と信じ、きっと生きて帰ってくると信じていた。

 

 翌21年春、夫の戦死の知らせが来た。『ビルマのハーモで戦死』。どうして、どうして、何度繰り返しただろうか。涙、涙の毎日。後日、十日町で合同慰霊祭があり、その亡くなった人の多さに驚いた。その時、耳元で『静枝、しっかりしろ』、夫の声が聞こえた、気がした。

 戦死の知らせを受けた後、所属が一緒だった人から連絡が来た。話しを聞きたいと千葉まで出向いた。その人は衛生兵で住職だった。

 「正義感の強い人でした。残念です。私が政見さんの小指を焼き、持ってきました。家に届く遺骨箱には、その小指の骨が入ってるはずです」。 

 その通りだった。役所に取りに行った遺骨箱には、確かに小指の骨が入っていた。父と母の間に埋葬した。石橋家の墓でいまも眠る。

 「同じ人間同士なのに、どうして殺し合わなければならないのでしょう」。 

 月の命日、年の命日には、いまも花を添える静枝さん。75年前は、いまも昨日のことだ。

                       (2015年8月取材/恩田昌美)

 

 「語り継がねば」は今回で終了です。大切な体験を聞かせて頂き、感謝いたしますと共に、今後も記録していきたいと考えます。          妻有新聞社

90歳を超してやっと戦争を語れるようになったという池田さん(2015年7月16日写す)

昆虫やヘビ、ネズミで飢えしのぐ

200人の高射砲舞台、生き残りは半数

 90歳を過ぎて、ようやく戦争の話ができるようなったと話していた池田幸平さん(十日町市島、1920年・大正9年12月9日生まれ)。2年前に長女の住む長岡市に移り、ことし1月29日、死去した。99歳だった。昭和17年、関東軍の軍要員として配属され、翌18年にニューギニア島での激戦に参加した。「戦死者の惨状は思い出したくないほどだ」と語った池田さん。2015年7月16日取材をもとに再掲載します。

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  「敵機高度4500。航路角零度」。まっすぐに向かって来るアメリカB29爆撃機。手にした20㌢対空双眼鏡。目を凝らすと、爆撃機下方の弾倉が開いていた。完全な攻撃態勢だった。「撃てー」、指揮官の号令で一斉に高射砲が火を噴いた。それと同時に敵機からの投下弾が次々に炸裂。爆発音とともに土砂が舞い上がり、あたり一面は暗闇。硝煙の臭いと「ぎゃー」という叫び声…。

 

 満州はロシア国境に近い城子溝に関東軍の軍要員として配属されたのは、徴兵された昭和17年。しかし南方の戦局悪化から翌18年、激戦地でもあるニューギニア島へ向かうことになった。

 野戦高射砲第57大隊・濠北派遣第4358部隊。本来ならオーストラリアへ向かう部隊だった。18年10月8日、朝鮮半島の釜山から7千㌧級の貨物船で出発。隊員は倉庫に詰められた。1ヵ月後、マニラに着いた後は、米軍機の襲撃もあり、逃げ隠れしながらの航海。目的地のニューギニア島・マノクワリに着いたのは11月15日だった。ジャングルに入り込み、運び込んだ高射砲で連合軍機を迎え撃つことになった。

 

 部隊は2百人ほど。食料補給は全くなかった。食べ物がないためサツマイモ畑を作ったが、米軍の爆撃機が襲来しては耕作畑に爆弾を落とした。作物は出来ず、毎日が飢えとの戦い。「バッタなどの昆虫、ヘビ、トカゲ、さらにネズミも取って食った。野菜は手近の草。敵機が海に爆弾を落とすと、魚が死んで浮かんだ。それが唯一のご馳走だった。ネズミの皮の剥き方、今でも覚えているよ」。

 病気やマラリア、栄養失調で命を落とす兵隊が多かった。当初は野戦病院もあったが、いつの間にかなくなっていた。「デング熱やマラリアにも罹った。薬があった訳ではないが、何とか助かることができた。運がいいんだろうな」。

 敗戦までの1年半。繰り返す米軍機とイギリス軍機の爆撃。「日本軍の飛行機は1機も来なかった。来るのは敵機ばかりだった」。半数の百人ほどが戦死。「地獄とは、このことだったよ。戦死者の惨状、思い出したくない」。近くにいた2万人の歩兵部隊はジャングルへと進軍。空爆などで生き残ったのは十数人だけだったと後で知った。

 

 敗戦の20年8月15日、「全員集まれ」の号令。無線による玉音放送は聞き取れなかった。が、日本は負けたと知らされた。3、4日後、連合軍機が空からビラを撒いた。『戦争は終わった。しばらくその場で時期を待たれよ』といった内容だった。帰国できたのは21年5月。米軍船の中で「『早く日本に着いてくれ。早く家に戻りたい』、それだけ思い続けた」。

 

 長年、夫婦ふたり暮らしだったが、長岡に住む娘が家事の世話に来るようになった。「腰が曲がって大変だ」と笑うが今も家庭菜園と菊づくりが趣味。新聞やテレビニュースを見るたびに「今の政治家はみんなおぼっちゃん。戦争の怖さを知らない。だからあんな安保法案など持ち出すんだ」。

(2015年7月16日取材/村山栄一)

「こんな話、もう話すことはない」と大沢巳作さん(2015年7月31日撮影)

志願し海軍へ、あわや海の底に

特殊潜航艇のテストパイロットに

 「もう、こんな話は、話すことはないだろうな」。自分の『兵籍番号』まで覚えている大沢巳作さん(昭和2年10月6日生まれ)。日本軍が人間を武器にした「人間魚雷」に関わった体験談は、まさに歴史の証言者。92歳になり自宅で家族と暮らす大沢さん。2015年7月31日の取材を再編集し掲載する。

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 海軍は志願だった。高等科2年の時。「どうせ徴用に出されるんなら、志願した方がいい」。大沢巳作さんは、15歳で志願入隊した。

 なぜ、海軍。「俺は扁平足なんだ。だから走ることや長く歩くのは駄目。ろくに泳げないのに、よく行ったと思う」

 

 小学時代。水泳は近くの信濃川だった。「あの頃は、親の許可がないと行けない。うちの親は危ないからと許可を出さなかった」。その後、学校にプールが完成。「あれは小学6年の時だったかな。海軍上がりの先生が来て、泳げない俺を、プールの一番深い所に放り投げるんだ。溺れる寸前で助ける、こんな繰り返しで、なんとか少し泳げるようになったが…」

 

 山口県の海軍潜水学校に配属。潜水艦だ。訓練で何度も潜水艦に乗船したが、戦局が悪化するなかで配属されたのが『特殊潜航艇』の水雷課。水雷とは『魚雷』のこと。

 真珠湾攻撃で使われた特殊潜航艇は2人乗り。水雷課に配属された頃、真珠湾攻撃の話を聞いた。2人乗り特殊潜航艇5隻が出撃。全隻が撃破されたが、奇跡的に1人の生存者がいた。「爆風で飛ばされ、そのまま気絶し捕虜になった。開戦後最初の捕虜だったようだ。まさに九死に一生を得た、だな」

 配属された特殊潜航艇の水雷課。基地は姫路・播磨造船所。甲・乙・丙・丁と新型が作られた。真珠湾攻撃は甲型。大沢さんが乗船したのは最新式「丁型」の5人乗り。2基の魚雷を装備。敵艦に魚雷を発射後、すぐに引き返す潜航艇。瀬戸内海で訓練し、日本近海に出撃した。

 

 ある日、艇長から言われた。「大沢、テストパイロットをやれ」。開発する特殊潜航艇のテスト乗員だ。瀬戸内海の一番深い場所で、開発した潜航艇を水圧耐圧テストする。特殊潜航艇の両端をロープで吊り、そのまま海深く沈める。水圧により内部機器に異常がないか調べる。そのテストパイロットだ。

 「もう怖くてビクビクだ。嫌だとは逆らえない。やるしかない。片方のロープが外れたら、そのまま海の底だ。とにかくおっかなかったな」。

 さらにある日。再び艇長に言われた。「今度、新潟に行ってもらうぞ」。自分の出身地だと喜び、言われる任務を遂行した。だが、そう言われ、まもなく終戦。結局、新潟行きは実現しなかった。

 戦争終盤。海軍は『人間魚雷』を使った。「あれは、特別な場所で秘密に作っていた。瀬戸内海の小島で製造していた。島を回った時、あれに使った鉄屑が山のようにあったのを覚えている」。

 

 時々、テレビに山口や舞鶴、瀬戸内の景色が出る。「ビクッとする。あの頃の地を訪ねてみたい気もするが…」。1歳違いの弟は義勇軍に志願し、最初のソ連侵攻に遭い、その地で戦死した。

 「俺の兵籍番号は『舞志水19…』だが、あとの数字が思い出せない。こんな話、もう話すことはないだろうなぁ。それにしてもバカな時代だったなぁ」。 

(2015年7月31日取材/恩田昌美)

体験を語る尾身キミさん(2015年6月30日撮す)

「終戦が、もう1ヶ月早ければ…」

夫は出兵、娘は1歳半で、収容所は死体の山

 夢が詰まった憧れの場所だったといわれた満州(中国東北部)。昭和19年2月、ひと足先に現地に行っていた夫の所に向かった尾身キミさん(十日町市丸山町。1920年・大正9年10月14日生まれ)。23歳の時だった。ことし百歳を迎える尾身さん。耳が遠くなったとはいえ、今も自宅で家族と共に暮らしている。

 「満州の日本収容所で、戸を開けたら死体の山だった」と振り返る。

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 満州(中国)のシベリアに近い阿倫河(あろんが)開拓団の一員として迎えた敗戦日の昭和20年8月15日。夜、開拓団長が全員を集めてこう言った。「日本は戦争に負けた。もう日本に帰れない。みんなで自決しよう。家族全員一緒に自決できるよう、私が手榴弾を持ってきます」。その場にいたみんなが泣いた。胸には生後9ヵ月の娘。「この子だけは死なせたくない。だけど生きていても辛いことばかりだろう…」。十日町市鉢出身の尾身キミさん(94)は体を震わせた。

 

 「赤い夕日に照らされて…」の歌が流れた時代。国策で「満州は夢が詰まった場所」だった。昭和19年2月。1ヵ月前に結婚し、ひと足先に満州に行っていた夫の所に向かった。阿倫河・高千穂集落18世帯。1年ほどは平和だった。しかし翌20年7月15日朝、開拓団員は徴兵しないとの約束だったが、夫宛てに「赤紙」が届いた。赤紙は集落全世帯に届き、一家を支えるべき男たちがその日の夜に出兵した。

 夫は、移動した関東軍の代わりに、ソ連(ロシア)国境の守備に当たった。「それから1ヵ月も経たない8月8日、ソ連が参戦したんですよ。それ以来、夫の顔を見ることはできなかった」。

 集落に残ったのは、出兵した夫の妻と老人、子どもだけ。「ソ連が攻めてくる」との情報で、学校や病院などの施設がある「本部」に他の集落を含め50世帯余りの家族が集まり共同生活。そして8月15日を迎えた。

 自決を決意した夜。手榴弾を取りに行った団長は、翌朝になっても戻って来なかった。「あの時、自決していたら…。本当に怖い夜だった」。

 9月に入ると騎馬隊の「匪賊」が襲ってきた。生活用品まで洗いざらい持って行かれた。加えてソ連兵もやってきた。「何をされるか分からない」。ソ連兵が来る度に林などに逃げ込んだ。そんな日の連続だった。

 

 満州の冬は早かった。11月に入ると寒さが厳しくなった。団長が満州の集落長にお願いして、住み込みの手伝いとしてそれぞれの家庭に入ることができた。「みんなやさしくしてくれました。私たちにも同じ食事を出してくれ、それで寒い冬を越せることができました。今でも感謝しています。いい人たちだった」。ただ、そんな時に娘が肺炎で亡くなる悲運。わずか1年半の命だった。娘を抱いて、涙が枯れるまで泣き続けた。

 

 21年春。親子ら15人ほどで日本人が多く住む『チチハル』まで、160㌔余りをへとへとになりながら歩いた。着いた先の日本人収容所の倉庫は大勢の難民でいっぱいだった。「寒さと栄養失調で、何人もが発疹チフスに罹ってバタバタと死んでいった。義勇軍の若い奥さんや子どもたちだった。トイレだと思って開けたら死体の山。収容し切れない死体が外にも重ねてありました」。

 

 「辛い思い出はまだいっぱいある」、そう話す尾身さん。「夫の死を知ったのは日本に帰ってから。終戦がもう1ヵ月早ければ夫も死ぬことはなかった。開拓団の悲劇も半減したはず。もう1ヵ月早ければ…」。

(2015年6月30日取材/村山栄一)

「本当に気の毒なことをした」と当時の思いを語る関澤清勝さん(2015年7月4日、津南町赤沢で)

飛ぶのがやっとだった少年飛行兵

「出撃全機、責務完遂」、どこへ…

 あれから75年。18歳で出征した人が93歳を超える歳月の流れは、「歴史の生き証人」が、ひとり、またひとりと亡くなる現実でもある。妻有新聞社は『二度と過ちを繰り返さない』、その思いを込め10年前から7月、8月に「戦争体験」を記録する『語り継がねば』を連載してきた。証言者が次々と亡くなるなか、貴重な体験を伝え残す思いを込め、これまでに取材・記事化した戦争体験談に再取材を加え、連載する。

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 少年飛行隊員の募集チラシを見た関澤清勝さん(1924年・大正13年2月10日生まれ)は、昭和17年9月、19歳で入隊。特別攻撃隊の教育隊に配属。教えた少年飛行兵を見送った辛い思いを語った。関澤さんは昨年11月22日、94歳で死去。5年前の取材を元に再掲載する。

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 軍の命令は絶対だった。15、16歳のあどけなさが残る顔が、戦闘機の操縦席にいる。「終戦のまぎわだったと思うが…」。特別攻撃隊、『特攻隊』が、彼の地、満州でも、軍の司令で飛び立った。

 満州・公主嶺(コウシュレイ)の第8398隊(第2航空気象連隊)の航空要員教育隊の下士官だった関澤清勝さん(91)。あの少年飛行隊員のことが忘れられない。

出撃命令。限られた燃料しか補給していない戦闘機に乗り込み、飛び立つ少年たち。「離陸後、左に一回旋回し、主翼を左右に振っていくことになっていたが、それすらできない未熟な飛行で、空の向こうに飛び去って行った。敵艦がいる海までたどりつけるはずもないのに…」。

 

 関澤さんも少年飛行隊に志願したひとり。祖父の仕事に伴って一緒に暮らしていた秋山郷小赤沢で、少年飛行隊員を求めるパンフレットを見る。「お国のため、天皇陛下のため、愛国心が絶対の時代でしたから、私は飛行隊に憧れました」。

 昭和17年9月、入隊後の配属先は満州・新京の第8398隊。19歳だった。訓練を積むなかで上官に認められ、航空要員教育隊に配属。まもなく下士官になり、入隊してくる17、18歳の少年飛行兵の教育を担当した。

 忘れられないのは終戦の昭和20年の春。少年飛行兵の教育を『20時間以内で仕上げろ』と命令が出た。「とても無理。ただ飛び上がって、まっすぐに飛んで行くだけ、それが精いっぱい。だが命令には逆らえない」。すでに2千時間近い経験を積んでいた関澤さん。それだけに「無謀だ」と感じたが、命令は絶対だ。

 特別攻撃隊、いわゆる特攻隊を公主嶺では『降魔隊』と呼んだ。1隊16機編成。夏までに2隊を送り出した。

 出撃の前夜。「真新しい飛行服を用意したが、誰ひとり受け取らなかった。『帰ることはないのですから、古い服で充分です』と言った。皆が抱き合って泣いていた」。どうすることもできない自分が、そこに居た。

 

 翌朝、真っ青な空の下に並ぶ16機の九七式戦闘機。航続距離630㌔余、かろうじて日本海に届く。『別れの盃』を交わし乗り込む少年たち。エンジン全開状態で、車輪止めと尾翼引きを一斉に解放するとスーッと離陸。約束通り上空を左旋回。だが主翼は振らなかった。

 「20時間では飛ぶだけが精いっぱい。そのまま空に消えていった」。

 真っ赤な夕焼けが空を染める頃、『出撃全機、責務完遂』の連絡が入る。それが何を意味しているか、誰も口にしなかった。

 

 終戦。関澤さんはソ連軍の捕虜となり、約千人と共に「シベリア抑留」となる。4年後の12月末、なんとか生まれた地の津南に、生きて帰った。

 大雪の年、ふと、シベリア時代を思い出す。そして『彼ら』の顔が目に浮かぶ。「本当に気のどくなことをした…」。

(2015年7月4日取材/恩田昌美)

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