シリーズ連載

明日へ

 
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樋熊フサ子さん

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氷が張った状態のエメラルド色の野々海の川

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闘病の思い、森にカメラ向け

アマチュアカメラマン 樋熊 フサ子さん

 37年余りにのぼる闘病生活の中で、心を癒してくれる森にカメラを向けている十日町市新座のアマチュアカメラマン・樋熊フサ子さん。フェイスブックで知り合った長野・安曇野在住の写真家との交友で、3年前から安曇野のレストランで開いている「10人十色」展に参加。今年も1月9日〜2月21日まで開いた同展で作品20点余りを展示した。70代での森との出会い。「いのち巡る森。あの森の聲がきこえる。幸せをいっぱい感じればいい。そしたら百人力になる。病気なんて退散する」、そんな思いで森にカメラを向け続けている。

 写真との出会いは37年前、病弱から脱したいと登山を始め高山植物を撮り始めたことに始まる。すぐに全日写連十日町支部の門を叩き、入部。市展や県展はじめカメラ雑誌など様々なコンテストで入賞。県内でも名が知られるようになっている。

 そんな活躍の裏では、常に病気との闘いがあった。乳がんやすい臓がんなど患い、一時は医師から「ステージ4です」と宣告を受けたこともあった。しかし「抗がん剤が自分と相性がよく効くんです」と寝たきりのような状態にはならず、闘病を感じさせないほどの生活をおくっている。

 そんななか、5年ほど前にフェイスブックで出会ったのが安曇野在住の写真家・石田道行さんだった。「石田さんの世界観でもあるブナや森の話を聞くうち、自然に栄村・野々海や秋山郷に足を運ぶようになり、森の木々と対話するようになったんです」。森の幽玄な感じを撮りたいと、雨が降った日を選びクルマで2時間ほどかけて行く。朽ちた大木や新たに芽を出したブナなど、森にも生命の連鎖がある。「ひとり森の中に立っていると、それらの木々が語りかけてくるんです」。その時にシャッターを切る。

 「県展、市展は付き合い程度で出してもいいけど、もうコンテストは止めました。自分が撮りたいものを撮っていきたい」。それが森。数日前、部屋いっぱいに置いてあったコンテスト入賞トロフィーなど全部、捨てた。「やっと自分の写真と向き合えるようになったのかな」、そう話す。

 今後も雨が降る朝、森の聲を聞こうと出掛けていく。

(2021年4月3日号掲載)

根曲がりで状態で巨木となった栄村・野々海のブナ

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「アートのまちづくりに貢献したい」と中豊和さん

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アートから離れられない

NAKA・Art・Desk・One 中 豊和さん

 今年は3年に1度開かれる大地の芸術祭の年。十日町市展の現代美術の部で、30代で無鑑査に推挙され、5年前に「NAKA・Art・Desk・One」を立ち上げ、建物の外壁にアートデザイン風に社名を掲げたり、独自のアートグラフィックを製作、販売している中豊和さん(39、十日町市稲葉)は、2018年の同芸術祭「方丈記私記」のロゴをデザインした人でもある。頭の中にあるのは「アートのことだけ」という。

 中さんがアートに関心を持つようになったのは小学5年の時。ヒップホップカルチャーのスプレーなどで大きな壁にアートを描くグラフィティに魅せられ、のめり込んだ。「衝撃だったンです。あぁ、こんなことやりたいなって。そのことが頭から離れなくなりました」。

 その気持ちはブレず、17歳の時に十日町を飛び出し、京都や大阪、奈良などで店の壁にグラフィティを描く仕事を始めた。「実践の場だったので、どの作業も新鮮で勉強になりました」。6年間の活動の後、十日町にUターン。27歳からはデザイナーとして地元の印刷会社で働いた。

 ただ持病ともいえる椎間板ヘルニアが悪化。やむなく退職。ようやく回復した1年後、独立を決意し起業した。当初は仕事量が少なく1年半後に「もう限界だ。俺の夢は終わった…」と辞めることを決めた数日後、大きな仕事が舞い込み、つながった。「何とかやりくりするうち、こうした仕事を求めている企業も多いということが分かってきたんです。仕事の依頼はほとんど東京や神奈川など関東圏の高齢者福祉施設や個人病院などの内外壁デザインです。自宅でパソコンに向き合ってやっています」。

 市展は23歳の時から応募。平成24年にコンピュータグラフィックスによる作品「ガンジーとキング牧師は…」、28年にはコンテンポラリーアート作品「チェ・ゲバラ」でそれぞれ市展賞を受賞。26、27年にも奨励賞を受賞し無鑑査に推挙された。

     ◇

 今年は大地の芸術祭の年。「アート作品が地元に並ぶというのはいいですね。見るのは大好き。刺激を受けますね。今回も期待したいです」。

 ちょっとしたことからヒントを得て、仕事に生かしていく。「アートから離れられない。趣味も仕事も一緒。いつか地元でアートが見える街づくりの一端を担ってきたい」。まだ歩む道は始まったばかりだ。

(2021年3月20日号掲載)

制作したコンピューターグラフィックス「美術館の部屋」

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​強い揺れで雪面にいくつもの割れ目が発生(2011年3月13日朝、高野さん提供)

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激震で家具などが産卵。このなか妻と避難した(2011年3月12日早朝、高野さん提供)

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激震発生の夜、不安を抱え近所が集まった(同12日午後6時過ぎ、高野さん提供)

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地震で土砂崩れが発生、住宅の半分が崩れ落ちた夏の山中尾の高橋さん宅(同3月12日)

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震災から10年

​「日頃の付き合い大事」、震災で実感

津南町上野・高野敏明さん、体験談を

 もう10年、まだ10年。東日本大震災の13時間後、長野県北部地震が発生。震度6強の激震地・栄村と隣接の津南町上郷地域も被災。当時、同地の上野集落の責任者・分総代だった高野敏明さん(64)は今月8日、長野のFM放送で栄村特集を聴き、10年前がよみがえった。

 2011年3月11日。その日は4月の地区春総会の準備の評議委員会を公民館で開き、夜10時頃に帰宅。テレビではその日発災の東日本震災の惨状が何度も流れていた。「信じられない映像だったし、我が身だったらと考えてしまった」。病気で自宅療養の妻と2階で床に就いた。

 いきなり携帯電話の緊急通報が鳴り響き、ほぼ同時に強烈な揺れが来た。「家がつぶれると思った」。隣の妻の上に覆いかぶさり守り、揺れが収まるのを待った。「どうやって2階から妻と一緒に降りたか、隣に妻をどうやって預けたか、覚えていないが…」。分総代として住民の安否確認と被害状況を調べに出た。ただその時、妻が言った言葉はいまも鮮明に覚えている。「行かないで」。それはそうだろう、病気のうえ不安いっぱいで頼りの夫が居なくなる、妻の気持ちは痛いほど分かったが、隣に預けて家を出た。

 水道はストップ、一時電気もストップ。当時28世帯、住民78人の上野集落。高齢の独り暮らし4世帯はじめ安否確認を地元消防団の協力で行い、公民館は被災で使えず、集落中央のバス回転場にテントを設営し、災害対策本部を立ち上げた。町行政に連絡を入れ「避難所を開設してほしい」と。だが、行政の対応は鈍かった。住民が協力し、テントで炊き出しをした。

 情報が乏しいなか午後になって、この地震が局所的で、栄村と県境の限られた一部地域の地震だったと知る。同じ津南町でも揺れを感じなかった地域もあり、それほど局所的だった。だが上野地区の被害は大きかった。

 集落ほぼ全戸が被害を受け、避難所開設が難しく、分総代として親戚関係への避難を促し、8世帯の高齢者などが被害がない町中央部など親戚先に避難した。「こういう時、日頃の親戚付き合いの大切さを感じる」。

 被害が局所的だったためか、行政はボランティアを求めなかった。だが「町内の方で一人で片づけの手伝いに来てくれた方がいた。本当に助かった」。親戚や友だち関係者も駆けつけてくれた。

 地震発生の夜。近所の独り暮らしや子どもたちが高野さん方に集まった。8人ほどが居間のこたつを囲み持ち寄り飲食品を食べ合った。不安のなか歓談する写真が残っている。乳がんで11年間闘病した妻は翌2012年1月、55歳で他界した。

 

 「みんな心細かったはず。こういう時に隣近所の大切さ、日頃からの付き合いの大切さを感じる。あれから10年。先日の地震の時もあの時を思い出した。防災というが、時間と共にその意識が薄れていく。この10年目は、また、あの時感じた大切なことを思い出させてくれる」。

                                   (恩田昌美)

「中尾での農作業が楽しみ」

震災で家を失った高橋さん夫婦

 東日本大震災の惨状をテレビで見た。地震の怖さを改めて感じたその翌早朝、2011年(平成23年)3月12日午前3時59分だった、ゴゴーと凄まじい音と共に家が大きく揺れ、家の半分が引きちぎられて斜面に崩れ落ちた。「何が起きたのか分からなかった。気付いたら家が半分なくなっていた」、当時を振り返る高橋英一さん(85、松之山中尾)。震災から10年、松之山中心部の災害復興住宅で暮らす高橋さんは毎年夏、妻・カズエさん(82)と共に思い出多い中尾に足を運ぶ。家は失ったが田畑は中尾にある。「中尾で農作業するのが一番の楽しみ。なに不自由はないが、年ばかり増えている」。今ふたりは春の雪解けを待つ。

 長野県や津南町に近い松之山中尾地区。長野県北部を中心とする最大震度6強の地震で土砂崩れが発生。住宅2棟と作業小屋なが崖下に滑り落ちた。この土砂崩れで高橋さん方の木造2階建て住宅の半分が引きちぎられ、壁や床材が崖下に散乱。英一さんは自宅トイレの窓から外に脱出、妻カズエさんは床材と共に転落したが、頭を切るなど比較的軽い傷で済んだ。また隣りの一人住まいだった高橋豊俊さん(当時60歳)方も30㍍余り下に押し流されたが、自力で外に出て無事だった。¥

 この震災に続き、5ヵ月後の8月には新潟・福島豪雨に見舞われ、さらに翌春の融雪による土砂災害が重なり、震災前26世帯あった中尾地区は16世帯に減り、現在は10世帯23人となっている。児童生徒の姿はなく、ほとんど高齢者世帯だ。

 高橋さんは、旧東川小教員住宅などでの仮住まいを経て震災2年後に建設された災害復興住宅に入ったが、中尾地区に水田と自宅で食べる程度の野菜をつくる畑があり、震災後も毎年夏、復興住宅から通って農作業に汗を流している。「中尾はふるさとだからね、仲間みたいなもの。田んぼは8反歩ほどあったが、今は1反歩作っているだけだ」。心配事は「夫婦ふたり、いつまで元気にいられるか」。

 「長いようで短かった10年。中尾ばかりか地域全体がどんどん高齢化している。冬は厳しいが、残っている人はこの土地が好きなんだ」。

 地震で松之山、松代地区を中心に十日町市の民家や作業所など建物全壊は133棟、大規模半壊・半壊は345棟に上った。この震災に加え高齢化が進み、市中央部や関東圏などに住む子らの所に移る人も多く、松之山地区はここ10年間に700人余が減少、2月末人口は814世帯1817人。高齢化率は54・87%に上っており、松之山支所の福原諭祐支所長は「点在する山間集落には限界集落という問題もある。どう集落を維持していくか、大きな課題」と話している。

                                   (村山栄一)

(2021年3月13日号掲載)

震災以降、松之山中央部の復興住宅でクラス高橋さん夫婦

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昨年末に新オーナーとなった蔵カフェ・ジャックマン秋山望店長(2日)

コロナ禍の独立、「新たな挑戦です」

ジャックマン秋山望さん、蔵カフェオーナーに

 これまで津南町になかったパンケーキとカフェの店、『kura café蔵カフェ』がオープンし3年目。店長を務めていたジャックマン秋山望さん(39)が昨年末に運営のパノラマ合同会社(デイブ・パドック社長)から経営権を取得、オーナー兼店長として独立。新型コロナウイルスの影響で飲食店が苦境にあるなかでの決断。「コロナはそんなに意識してません。以前からの『独立して自分の店をやりたい』という気持ちが強くなったんです。私自身が小さなビジネスを盛り上げ地域の刺激となり、他の方と一緒に共存共栄できる形に繋がればと思っています」と意欲を話している。

     ◇◇◇◇◇

 古民家を改修したカフェに、洋風のパンケーキを出す特徴ある雰囲気が好評の蔵カフェ。妻有ポークの自家製ベーコンを使ったキッシュ、津南産コシヒカリとレンズ豆のライスを使ったグリーンカレーなど、地元食材を使ったメニュー提供を続ける。知人を通し『津南でカフェをやらないか』と声をかけられ、東京から津南に飛び込んできた望さん。「町が元気になるお手伝いができればと来たんです。その原点は今も変わっていません」。津南産食材アピールを続けるつなベジ会、読み聞かせグループおはなしおかあさんのメンバーになるなど住民との輪も広下て来た。「知り合う皆さんからはこの町を良くしたいという強い気持ちを感じます。そして外から来た人の意見を聞き良いものはどんどん取り入れようという姿勢もあり、津南町がもっと元気になる可能性を私も感じます」。刺激を受けた2年余だった。

 独立を後押ししてくれたのはパートナーのマシュー・ジャックマン・秋山さん(英国ウェールズ出身)の『自分ができることは手伝うよ』の言葉だった。「IT企業に勤めているのですが自分の仕事をこなしながらカフェの事務作業を手伝ってくれたり、アイデアを精査してくれたり。彼の支えがなければ津南に来ることもなかったし、オーナーにもならなかったと思います」。

 津南に暮らすうち、見えて来たことも。「若い世代の人が働きたい場所がもっと必要と思います。将来を担う方たちの職を作らないといけない。小さな店のオーナーとして、こんなこともできるんだよというのを見せれば、少しは町の将来の役に立てるかなと思っています」。今までも画廊カフェや県内の有名フレンチシェフを招いた特別ディナー提供など特徴ある取り組みを行って来たが、独立を契機に新たな仕掛けづくりも進めていくつもりだ。「他店との連携企画や交流イベントなども考えていきたい。コロナで厳しい現状はありますが、挑戦していきます」。津南を未来ある元気な街にしたい想いが根底にある。

(2021年2月6日号掲載)

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加工所を設け総菜の製造販売に取り組む福嶋さん親子

女子力、地元野菜で加工食品

福嶋 恭子さん・佐藤 友美さん

 「女性農業者の笑顔輝く未来を創りたい」—。子育てをしながら農業&農家レストランを続けている福嶋恭子さん(57、十日町市中条)が、新たな女性農業者となった娘の佐藤友美さん(36)と一緒に新しいプロジェクトに取り組む。空き家を食品加工所として活用、地域の女性農業者らと連携し、今夏から惣菜やお菓子を製造販売する計画だ。「たくさんのワクワクが生まれています。女性農業者の笑顔輝く未来を見たい」。

     ◇◇◇◇◇

 全国でも有数の豪雪地・十日町。過疎・豪雪に悩まされる農業に対し、女性ならではの経験と感性を生かしてチャレンジしようとする若手農業者もいるが、初期投資といった資金面での課題や出産や子育てを迎えることで、挑戦意欲が削がれる現実がある。

 こうした状況を何とか打開したいと立ち上がったのが福嶋さん。中条地区に利用可能な空き家を見つけ、食品加工所へとリノベーション。内部に惣菜加工室と菓子加工室を設け、利用料収入により運営していく。

 福嶋さんは、子育てが落ち着いた45歳の時、女性農業者グループ・ウーファ(12人)で「越後妻有のごちそう家ごったく」を開店した起業家。昨年から新型コロナの影響で経営は厳しい状況になったが、その時に行ったテイクアウトで「地元食材を使った健康的な惣菜は共働き家庭に大きな需要があることに気づいた」という。

 そこで、テイクアウトを軸に今年の夏には、登録しておけば何度でもサービスを受けられるサブスク型の『里山デリ』として立ち上げる計画を立てた。質、味とも問題ないが、見た目でB級品となる野菜も生かして食品加工にチャレンジする女性農業者の商品を、広く一般家庭に届けていく方針。すでにワーキンググループを立ち上げ、メニュー開発を進めている。事業が軌道に乗ったあとはオンラインショッピングへの展開も考えているなど意欲的だ。

 一方で課題となっているのが資金面。「食材をおいしく加工したい」と瞬間冷凍機はじめ加工機械を購入するなど、総事業費は1千万円余りに上る。この計画を一昨年の市のビジネスプラン「トオコン」に応募したところ最優秀賞に選ばれ、300万円の支援を受ける予定。さらにクラウドファンディングを活用し広く支援を呼びかけ、目標の300万円に対し81万円余が寄せられている。

 福嶋さんは「今まで農家として、母として、多くの応援をいただきながらチャレンジをしてきました。今度は仲間を応援する番。女性農業者たちがアイデアと意欲を発揮する場所を作ることで、たくさんのワクワクが生まれていく、そんな笑顔輝く未来を作りたい。応援をよろしくお願いします」と話している。

(2021年1月23日号掲載)

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フィリピン・スービックで日本語学校など人材育成を行っている中沢さん

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中沢さんの日本語学校ではフィリピン人はじめ諸国の生徒が習う(中沢さん提供)

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観光地として人気のスービック。アイイエス社スタッフとの集合写真(同)

日本とフィリピンの架け橋に

日本語学校開き7年目の中沢宏行さん(津南町出身)

 フィリピンと日本の架け橋に—。7年前にフィリピン・スービック経済特別区に英会話学校を設立、世界で使える実践英語、日本や日系企業で働くのを希望する者には日本語教育、さらに就業サポートを行う法人『iYES Language Shool』(アイイエス・ジャパン運営)代表の中沢宏行さん(58、津南町大割野出身)。昨年末にいったん故郷に帰省。現在は新型コロナウイルス感染拡大の影響もあり渡航できないためリモートでフィリピンなどを繋ぎ在宅ワークを行っている。「しばらくは津南で仕事をします。オンライン授業はやりたくて始めたわけではないけど、改めてできることはあると感じています。雪がこんなに降る津南にいるのは本当に久しぶり。高校以来かな」と笑顔を見せる。

     ◇◇◇◇◇

 十日町高を卒業後、電気通信大学に進学。応用電子工学を学ぶ。大学時代はヨット部に入るなど面白いと思ったものに飛び込んでいた。卒業後は東芝に就職、半導体エンジニアとして働く。「当時は理系大卒で新卒なら誰でも入れる時代でしたから」。九州など国内転勤を経ながら、アメリカ・カリフォルニアのシリコンバレーにも1年半家族で移住。本格的な英会話技術習得はここから。「行く前に少しは喋れるように勉強しました。大企業だったからやりたければ会社負担で語学を学ぶことができたんです」。帰国後は営業よりの仕事に配置換え。「あちこちに出張でき、それが面白くて。自分は技術者じゃなくていいかなと思ったんですよね」。20年余東芝に勤務したが、台湾の半導体関係の企業から声をかけられ転職。2年半勤めるがその会社社長が別の半導体企業のトップに転職。「ここで誘われて一緒に移ったんです。そしたら1年半でドイツにあった本社が倒産。また転職するしかなくて」。2009年、47歳の時。まさかの事態だった。

 景気悪化で採用が減っていた時期。やっと拾ってくれたリサイクル企業の採用条件は『フィリピンの工場で働くこと』だった。「東芝時代も含め縁はなく『え、フィリピンか』と思ったけど行くことにしたんです」。工場があった場所がスービック。首都マニラから車で2時間半。元はアメリカ海軍基地で1991年に返還後に経済特別区に。観光地化が進みフィリピンで最も安全な場所の一つとして知られる。「景色もキレイで食事も美味しく、環境に惚れました」。そして「フィリピン人と仕事をするのがとても面白くて。彼ら流なもてなし、ホスピタリティが素晴らしい。できたばかりの知り合いの家に行くと普通に『飯食っていけ』とか。津南の『お茶飲んでいけ』と同じ感じ。性に合ったんです」。会社では工場長など務めながら4年余勤務。楽しい時間だった。

 だがまた転機が。当時の上司から『日本人のフィリピン英語留学を受け入れたい』と誘われた。「最初で最後の起業のチャンスだと思い、乗っちゃったんですよね」。仲間と共に『アイイエス社』を2014年に設立。だが事業は2年余で頓挫した。「フィリピン英語留学ブームに乗り開校したけど、うまくお客を呼べませんでした。いま思うと、どうやってお客を日本で取って来るかの視点が抜けていました」。共同創業者は去ったが、挫折を糧に個人で会社を再起動。フィリピン英語留学に加え、外国人対象の日本語教育など進める形にした。「いわゆる学校形式で学ぶ形にこだわらず、現地での体験やビジネス研修といった実践重視に変えました。英語も日本語も会話重視。おしゃべりするために基本を覚えましょうというやり方です」。

 フィリピンではアニメ『ワンピース』『名探偵コナン』などから日本語に関心を持つ人が多いが、語学学習は挫折する人が多いという。「日本語は漢字や平仮名、カタカナもありやはり難しい。テキスト中心授業で挫折する人も多いんです。日本人も英語を挫折する人が多いのと同じ。だから日本語能力検定といった試験合格が主題ではなく、実際に必要な会話ができることが大事という思いがあります」。授業では常に笑顔を心がける。「フィリピン人は一生懸命努力する耐性が高いけど、辛くても頑張るがいいこととは限りません。やっぱり面白い方が覚えられる。先生も生徒も楽しくやらないと」。受検のための勉強ではないため生徒との距離も近い。「授業を続けみんな少しずつ喋れるようになると嬉しくなるし、教える冥利を感じますね」。いま教え子はフィリピンを中心にアジア各国に広がっている。

 事業に手応えを感じ新たにスタッフも雇用した昨年だったが、予期せぬ新型コロナの世界的流行。これまではフィリピンと自宅のある横浜市を往来していたが、今は行くことはできない。語学授業はオンラインを通し継続している。「早く収まるのを願うしかありません。拠点のスービックは日本ではまだ馴染みが薄いですが本当に良い所。日本人に限らずもっと人を呼び、挑戦できる人材が集まる場を作りたい。アイイエスは人との関わりで進めて行く仕事。何よりも人を大切にしていきたい」。逆境に負けず、日本とフィリピンの架け橋となる挑戦はまだまだ続く。

(2021年1月23日号掲載)