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妻有職人伝

 
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スイーツの逸品を作りたいと話す野上さん

ラポート十日町

日本の四季を洋菓子に

ラポート十日町 野上 香さん

 「洋菓子であっても日本の四季を感じてもらえるもの作っていきたい」と、ラポート十日町でパティシエ(洋菓子職人)を務める野上香さん(23)は語る。

 小学高学年頃から料理が好きになり母を手伝って、高校生で進路を決める時にパティシエの道を選んだ。市内の自宅から長岡市の専門学校へ通い製菓を学んだ。菓子作り専用器具の扱いから始まり、ケーキにクリームを塗る練習など丸一日実技を続ける日もあった。チョコ細工、飴細工など徐々に高度な技術を身に付けていった。

 授業では学校の先生だけではなく、首都圏で店舗を構える職人や、ヨーロッパ各地の職人も学校を訪れ生徒たちを指導した。「競争が厳しい都内の職人や、世界で活躍する職人から教えてもらったことは代えがたい経験でした。一つ一つの作業が丁寧なのにすごく速い。もちろん味も素晴らしかった」と振り返る。

 2年生の卒業制作では1月からグループに分かれ、原価計算をしながら試作を重ねて見映えと味を高めて3月に発表して先生の評価を受け、多くのパティシエが持つ国家資格の製菓衛生師を取得した。就職活動中に地元で働くことに決め、ネットで検索中にラポートの「パティシエ募集」を見つけた。

 ラポートに就職したが、他にパティシエはいなかった。「何からやったらいいのか分からないが、挑戦してみよう」という気持ちだった。厨房の上司から「宴席のデザートでこういうものを作ってほしい」と指示されると、専門学校当時のノートを調べて形にしていった。菓子職人ではなくても厨房内は料理のプロ集団。「こうした方がいい」とアドバイスを受けて修正して完成させた。料理を食べた後のデザートは見た目と共に量の配慮も重要だった。

 やがて専門学校の後輩が入り、他のホテルで働いていた洋食の料理人でデザートを受け持った経験を持つベテランも入った。「心強く充実しています」と笑顔を見せる。ラポートの催し「スイーツバイキング」は当初10種類程だったが、今は30種類程を出す。厨房にいては見られない楽しそうな姿と「美味しかったよ」の声が嬉しい。

 春は桜の花の塩漬けを使い、夏はゼリーで爽やかに、冬はチョコで濃厚にして季節感を出す。「ラポートと言えば『これ』というスイーツを作りたい。家庭でのお祝い事やクリスマスには『ラポートのケーキをとろう』と言って貰えるよう頑張ります」と力を込める。

(2021年5月1日号掲載)

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PCをより良いツールにしたいと話す塚田さん

有限会社豊楽・PCヘルパー

パソコンの修理、お任せ

41 PCヘルパー・豊楽 塚田 弥生さん

 事業所でも個人でも仕事や生活に欠かせなくなったパソコン。国道253号沿い十日町市錦町交差点近く、豊楽のPCヘルパー部門で部門長を務める塚田弥生さん(40)はパソコンの修理、設定、メンテナンスなどを行う。「中学3年の頃、ウインドウズ95が発売され、テレビニュースで店に多くの人が並んでいたのを見てパソコンに興味を持ちました」と振り返る。

 高校2年の時、先輩が「そんなにPCが好きなら、そういう学校へ行ったら」の言葉が将来進む道に導いた。PC専門学校のマルチメディア科在籍中に社会はIT革命時代に入った。

 長岡市のホームページ(HP)制作等を手掛ける会社に就職し、顧客のところへHPの打ち合わせに行くとPCに関するトラブルで相談を受けることも多く、解決のため調べて対処するうちに、そちらの方が得意になった。「お客さんから相談を受けるうちに、PCに関する仕事はものすごく世界が広いなと感じました」と語る。

 その後、PC関連の小千谷市の会社から声をかけられ転職し、本格的にPC修理、設定等に取り組む。当時のインターネットの主流はADSLで電話配線を直さなくてはならないことが多く、電話工事の知り合いが「これだけ仕事ができるのなら独立してやってみれば」と言われた。塚田さんには独立という発想はなかったが「そういう選択肢もあるんだな」と気付き、26歳で『PCヘルパー』を起業した。

 人見知りだったが顧客を作ろうと熱心に方々を回り、知り合いや企業の取り持ちもあって取引先が少しずつ増えていった。友人夫妻も塚田さんのためにと豊楽の社長と引き合わせた。社長からは「当社に勤めて情報管理などをしてほしい」と言われた。塚田さんは「その仕事もしますが修理、設定の仕事も続けたい」と願うと要望は容れられ、塚田さんの入社と共に豊楽にPCヘルパー部門ができた。

 昨年から新型コロナ感染拡大と共に、昨年春からオンライン授業のためPCによるZoomが学生必須となった学生が急増。また会社などでもZoom(ズーム)を利用したインターネットの遠隔会議や、講演の配信業務の依頼が増えた。 

 塚田さんは「事業所でパソコンが止まってしまうことは仕事が止まってしまうこと。早急な対応が重要で、素早い復旧を心掛けています。部下と共に体制をさらに整えていきたいです」と話している。

(2021年4月10日号掲載)

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細く長く頑張りたいと話す須藤さん

越後赤谷 そば処やへどん

​人との縁を積み重ね

40 越後赤谷 そば処 やへどん 須藤 哲也さん

 「料理は一定の味を保つためにレシピは必要だが、店のサービスはマニュアル化してはいけない」と、道の駅せんだ近くの『越後赤谷そば処やへどん』の店主・須藤哲也さん(65)は語る。

 十日町高校を卒業後、都内の中央工学校に進学して建築・設計技師をめざして学んだ。就職はしたが第二次オイルショック当時で建築業界は景気が悪かった。その後出会った女性と恋仲になり、結婚させてもらおうと彼女の実家、川西仁田の割烹料理店『やへどん』へ挨拶に行くと、父親から「この店を継いだら結婚させてやる」と条件を出された。須藤さんは建築業に行き詰まりを感じており、結婚を機にやへどんに入ることにした。

 義父は都内の有名料亭で長く働き、歴代総理や著名人にも料理を出していた根っからの職人。天ぷらの揚げ方は教わったが「時間が経てば料理は覚える。もっと様々な知識を増やせ」と言われた。

 須藤さんは10年近くやへどんにいたが「外へ出ていろいろな業界を見てみたい」と一念発起して東京へ。大手料理店チェーンの料理長を務め、アメリカの超大型店で研修し、名古屋の大型店では店長を務めた。須藤さんは「仁田にいたのでは井の中の蛙だった。料理だけではなく店のマネジメント、新規出店なども経験させてもらった」と振り返る。

 10年程経ち、縁があって十日町市内の老舗そば店へ。大手料理店での出店経験や、店作りには工事が関わるため建築業にいたことも役立ち、店主の意向で新潟、長岡、上越への出店に携わった。

 故郷の仙田赤谷の先輩から「今までそば屋をやっていた店で商売を始めないか」と声をかけられた。前の店は赤谷で50〜60年間そばを扱っており、そばに馴染みがある土地柄。須藤さんは経験を活かせるそば店『やへどん』を6年前に開いた。

 「東京のそばつゆは濃いが、この辺のつゆは薄いが旨味がある。つゆが絡み喉ごしの良い細いそばを使っている。仕入れから仕込み、料理まで全部自分でやっている。この店はすべて自分の味」だと力を込める。

 厨房から店内を見渡すことができ可能な限りお客に声をかけ、居心地が良いよう心掛ける。「前のそば店からの繋がりでご贔屓が非常に多い。ご贔屓はこの店の命」だと言う。「たくさんの縁を貰ってここまで仕事をすることができた。75歳まで頑張ります」と笑顔を見せた。

(2021年4月3日号掲載)

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家計を助け和裁・洋裁の道に進んだ阿部ムツ子さん

​てづくりさろん・たんぽぽ

「必要とする方がいる限り続けます」

 39 てづくりさろん・たんぽぽ 阿部 ムツ子さん

 「とにかく毎日必死で働く。その連続でした」と語る『てづくりさろん・たんぽぽ』店主の阿部ムツ子さん(70、クロステン)。織物関係の会社で働いていたが連鎖倒産に遭い、それならば「自分で仕事を作ろう」と昭和52年に毛糸や手芸品などを扱う店を十日町市昭和町で開いた。

 父は気管支喘息で入退院を繰り返し、母は阿部さんの妹を産んだ時に産後の肥立ちが悪く眼を患い、両親とも満足に働けなくなってしまったため、幼い頃からできる限り働いた。ご飯を作って掃除をし、薪を割って風呂も沸かすなど小さな主婦のようだった。

 高校生の頃は着物の内職をして商品の配達もした。列車の時間やバスの運行経路の関係で下条から十日町まで歩き、川西の上野から仁田を徒歩で往復するなど「よっぽど歩きました」と振り返る。3歳年下の妹が高校に入学する時は、自分が着て擦れてテカテカになった制服をほどいて裏返しにして仕立て直し、ブラウスも作ってあげた。

 社会人になっても内職は続け、手先の器用さと細かいところまで丁寧にする性分を活かし、通信教育なども受けて編み物をし、指導者の資格も取り、洋裁、和裁、着付けの免許も取得。自分が編んだセーターを来て街の店に行くと「すてきだね」と好評で、その店が顧客から貰ったセーターなどの注文を阿部さんが編むようになり、寝る間も惜しんで作り続けた。

 その後、自分の店を持とうと決めたが商品の仕入先が分からない。仕入先を紹介してもらおうと長岡の手芸店を10数軒、飛び込みで回った。そのうちの1軒が紹介してくれたが「真剣さが伝わったのだと思いますが、初対面でどこの誰かも分からない私によく紹介してくれたものだと思いました。感謝しています」と語る。

 「きちんと帳簿は付ける、借金はしない、見栄を張らない」の三つを心に決め念願の店を開いた。徐々に顧客も付き従業員も雇ったが、阿部さんの勉強への意欲は高まる。「手芸の資格・免状を出せる側になろう」と東京へ通い続け取得し、『かけはぎ』という衣類にあいた穴を塞ぐ高度な技術も東京通いで身に付けた。阿部さんの技術は評判を呼び、市内だけではなく県内外から衣類の直しが送られてくる。「ありがたいと思っています。自分の好きな仕事はまったく嫌になりません。私を必要としてくれる人がいる限りこの仕事を続けます」と笑顔を見せた。前を向き、これからも進んでいく。

(2021年2月13日号掲載)

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年季が入った高機(たかばた)ですくいおりを手がける渡邊​夫妻

渡吉織物

伝統の光沢、繊細な格子模様

 38 渡吉織物 渡邊 孝一さん

 光沢があり繊細な格子模様で風合いが美しい十日町絣(とおかまちがすり)。渡吉織物(山本町)の渡邊孝一さん(66)と妻の美子さん(64)は夫婦で伝統工芸士であり、受け継いだ技術に高度な工夫を加えて新たな絣を生み出している。100色もの糸を織り込んだ超細密な『百彩伝承すくい訪問着』が渡吉の代表的な商品。

 かつて十日町の農家は絹の原料の繭を作る養蚕(ようさん)が盛んだった。初代の祖父、吉三郎さんは繭の買い付けをしていたが次第に織物も手掛けるようになり、父の善平さんが織物会社を起こして工場も拡張していった。

 渡邊さんは大学卒業後、叔父の伝手を頼り京都の着物流通業の会社へ。「姉と妹がいたが、男の子は家業を継ぐもんだと親から耳にタコが出来るほど言われ続けていた。しかし、いきなりウチに入るのは嫌だし古都を自由に見たいという思いもあった。京都には全国の産地から様々な着物が集まるので、それらを見ることができ、京都伝統のつづれ織りは私たちが織る『すくい織り』の発想にも繋がった。本当に勉強になった」と振り返る。

 24歳で帰郷したが「織物は自分のウチで覚えられる。染めを習いたい」と県立十日町職業訓練校の染色科で学ぶ。渡吉には染場(そめば)もあり当時の経験が活かされている。

 絣を織るまでには、絣模様が入る位置を設計する図案作りから始まり、述べた糸に柄が入る位置に印を付ける『墨付け』、染めない部分には綿糸でしっかり縛り付ける『絣くくり』、染め終わると綿糸をほどく『絣ほぐし』、さらにいくつもの作業を経て、経糸(たていと)を織機の細い針金が櫛状に並んだ綜絖(そうこう)の極小の穴に一本ずつ通す。その数は1200本以上。気が遠くなるような工程が必要で「図案作りから反物になるまでには3か月程かかる」と言う。

 通常の反物は綜絖に通った経糸を上下させてその間を緯糸(よこいと)を巻いた杼(ひ=シャットル)を左右から通して織るが、渡吉が力を入れる『すくい織り』は経糸の下に置いた図案に合わせて、所定の位置の経糸を杼ですくい上げて緯糸を通し、柄を織り進めて行く非常に手間がかかる織り方。

 渡邊さんは「今後も絣を手にする消費者からは『これまでに無い柄で着てみたい』と言われるような商品を作りたい」と語る。昨年の現代手織物クラフト公募展でグランプリを獲得しており「今年の公募展にも挑戦する」と意欲を見せていた。

(2021年1月30日号掲載)

使い込んだ織機が西川さんの相棒

西川織物株式会社

92歳、今なお現役で機織り

 37 西川織物株式会社 西川 治郎さん

 敗戦の年、昭和20年から着物産業に携わり75年。92歳の今も現役の機織り職人で伝統工芸士、西川織物(十日町市四日町)の西川治郎さんは「一生涯、着物に携われて本当によかった」と話している。

 西川さんは次男で戦時中、家を離れ東京の立川飛行機で働いていたが、西川家の家業を継ぐはずの兄が敗戦直前の6月にフィリピンで戦死。兄に代わり家業を継いだ。

 西川家では祖父が機織りに使う糸を撚る『撚糸』を始めたが、当時は家の前の川から水を引き、水車を架けて動力にした。やがて機織りも手掛けるようになり、手機織機を貸出して織ってもらう『出機』を中条や下条などの農家に出していた。昭和9年に4台の動力織機を入れた。戦況が厳しくなると贅沢禁止令の『七・七禁令』が出て絹織物の十日町は大打撃。軍需関係に転身する工場や廃業もあった。「少しは絹糸が割り当てで来て織物組合が『何反作れ』と指示を出す指定生産が行われた。我が家はやめないでいたが大変だった。闇機を織る所もあり、物資不足で反物であれば何でも売れた」という。

 禁令が解かれた昭和25年以降、十日町産地は復興に邁進。全国各地の着物を参考にして十日町の各機屋は独自のカラーをめざす。西川織物は糸を染める捺染加工に挑戦。難しい技術で正確に染めないと糸を経緯(たてよこ)に合わせる絣の文様がずれてしまう。同社は緻密な絣をブランド名『風林花山』として売出し大ヒット。買継商がお客を連れてきても本来反物が積んである畳の上は何も無くて畳が丸見え。「お前の所は畳を売っているのか」と皮肉られるほど予約が殺到した。

 消費者のニーズを捉え、紬生地を織り、それに染めを施す手法は西川織物が先鞭を付けた。現在、西川さんは一本ずつ糸をすくって織る『すくい織』や、独自の変り織紬を主に手掛けている。

 伝統工芸士は5年ごとの更新試験が必要。西川さんは工芸士試験の試験官を何度も務めた腕前だが、今秋更新試験を受ける。「仕事はまったく嫌にならない。どんな柄に仕上がるか楽しみながら織っている」と機織りにかける情熱は老いてなお盛んだ。

 「じっとしているのは嫌い」だと西川さん。機織りのほかに畑を耕運機で耕し、テレビ体操と家の階段を昇り降りする運動を欠かさない。平成5年に立ち上げたゴルフの「大井田シニアクラブ」の会長を長年務め、現在も年数回コースに出てプレーを楽しんでいる。

(2020年10月10日号掲載)

「秋酒ひやおろし」も楽しんでと福納店長

有限会社 宮幸酒店

『うれしい・たのしい・おいしい』を、お酒を通して届けたい

新潟県十日町市昭和町1丁目179−1

平日 10:00~20:00 日曜 10:00~19:00
定休日 無休

電話 025-752-2558

http://www.oradoko.jp/shop/2010/07/miyako.html

ニーズに応え、銘柄を提案

 36 有限会社 宮幸酒店 福納 卓也さん

 酒の専門家として日々の業務に取り組む宮幸酒店(昭和町1)の福納卓哉店長(34)は「消費者のニーズに応えられるよう、様々な銘柄を提案してきたい」と話している。

 日本酒の蔵元やワインのインポーター(輸入業者)などには店のスタッフと共に出向き試飲して新たな商品の発掘を行う。また、昨年は同店が10年前から扱っているフランスのオーガニックワインの産地へ行き、各地のブドウ畑や醸造場を視察した。オーガニックは栽培に農薬等を使わないことから収穫量は天候に左右されるが「自然の恩恵に感謝し、安心なものを自分の孫子の代まで繋いでいこうという姿勢がうかがえ、人間性が表れたワインだった」と味覚以外の発見もした。

 日本酒は近年、晩酌酒の一升瓶から「いろいろな酒を味わいたい」という指向から720ミリ㍑瓶の酒が好まれるようになった。また、消費者はCDや本のように中身が分からなくても包装や見た目で買う「ジャケ買い」が日本酒でも進み、各蔵元は瓶やラベルにアートを取り入れたり、個性的な箱を利用している。「酒の楽しみ方が変わってきており、720ミリ㍑酒はしっかりとラインナップしている」と言う。

 コロナ禍の自粛の波は飲食店を襲い、そこに酒類を卸す酒店にも大きな影響が。さらに町内や企業の納涼会とお盆の帰省客の自粛に加えて十日町おおまつりが中止となり、互いに酌み交わす酒と祭事での献酒がストップした。厳しい経営が続く半年間だが、中止となった「にいがた酒の陣」用に各蔵元が仕込んだ日本酒を仕入れて販売し、ワインの掘り出し市などを企画。現在は夏場に熟成させて秋に出荷する日本酒「ひやおろし」の販売を始め、外出自粛が続く中、家で飲む「宅飲み」に重点を置く。市内醸造所の妻有ビールや、酒の味を引き立てるつまみのチーズも販売する。

 「ワインの掘り出し市では、お客さんとの対面販売が大事だと改めて感じた。大手スーパーが出来ない各家庭を回って注文を受ける昔ながらの『ご用聞き』も大切にして、良い酒、新しい酒を紹介し、顧客との繋がりを広げて深めていきたい。どんどんと動きます」と力を込めた。新ホームページ開設で県外客への通販も進めていく。

(2020年9月12日号掲載)